桜の予感 1


        「詩織、高校ガイド買うたんやて。」
        「うわ、気合入っとる。学校にあるやん。」
        「制服じっくり見たいんやろ? 一番重要や言うとったもん。」
        「あはは、詩織らしーい。」
        窓から差し込む午後の光に埃を舞わせて音楽室の清掃を行いながら、
        場所に合わせてか、歌う様に級友達が噂話を繰り広げている。
        そんな会話に参加する事もなく、和葉は五線譜の描かれた黒板を拭く事に専念していたが、
        「かーずは、どないしたん?」
        ふいに、近くで雑巾をゆすいでいた椎名皐に声をかけられ、驚いて振り返る。
        「え? どうもせえへんよ?」
        「同じとこばっか拭いとる。」
        口の端を吊り上げてそう言われ、見上げて見れば、
        黒板は、一箇所だけがやけに青々しい。
        「あ、はは。」
        「気のせいかもしれんけど、最近少し元気ないんとちゃう?」
        「・・・・・・。」

        皐は小学校から仲の良い友達だ。
        さっぱりとした裏表のない性格で、
        これ程髪の短い女生徒もいないのではという程、
        潔くハサミの入れられたベリーショートの髪型をしているが、
        澄んだ美しい瞳が印象的な、すっきりとした顔立ちが、
        それを粗野ではなく、清潔な印象に取りまとめている。
        長身で、所属するバレー部での活躍は学校内外共に有名な、典型的な体育会系少女であるのだが、
        時折、妙に鋭い部分がある。
        大勢の友達同士で遊ぶ中、体調が悪い事を言い出せずにいた友人の様子にいち早く気づいたり、
        何事につけ厳しい、一人の教師への批判が飛び交う中、
        「でも、行事の時の片付けとかさ、どんな時でも最後まで見届けて、
        あたしらがちゃんと出来た時には誉めてくれるやん?」
        と、皆がそういえばと考えてしまう様な意見を発したり、
        そういう時にはいつも、普段は快活な皐の、思慮深いまなざしがあった。
        他の人間から見れば、和葉の様子はいつも通りに見えただろうし、
        和葉にしろ、普段と変わった振る舞いをしているつもりもなかったのだが、
        その実、皐の言う事にまったく心当たりがない訳ではなかった。
        下手に誤魔化すのも、せっかく心配してくれた皐に悪いと考え、
        清掃終了後、教室へと続く渡り廊下の窓辺に立ち止まり、
        暖かな日差しを受ける中庭を見下ろしながら、
        和葉は普段より幾分静かな調子で話を切り出した。

        「別に、元気がないって程の事でもないんやけどな、
        何か、最近、変な感じやなーって。」
        「変なって?」
        「うーん、受験の事とかあるやん? それで何か・・・。」
        「あー。」
        曖昧としか言い様のない和葉の言葉だったが、
        それでも皐はすべてを察したと言う様に、窓から中庭の小さな空を見上げてみせた。
        和葉も皐も、そろそろ進路について本気で考えなければならない時期である。
        遠からぬ高校生活に思いを馳せる気持ちもあるが、
        どうしても、避けて通れぬ道もある。
        色々と、面倒な事が重なる時期であったし、
        志望校に偏差値が届かないとか、
        親と意見が食い違ってもめているとか、
        友人間にて、笑って済ます事の出来ない様な話も浮かび上がっている。
        和葉は気丈な性格だが、周囲の気持ちの波を真っ向から受け止めてしまう様な部分がある。
        他の事なら先頭を切って盛り上げた事だろうが、
        そうも出来ない現状が、どこか彼女の気持ちを塞ぎ込ませているのだろう。
        「確かに、ギスギスって程やないけど、
        皆、色々と過敏になったり、話題がそっちに偏りがちやなーって思う時あるわ。」
        和葉の感じる違和感は、皐自身も少なからず感じ取っていたが、
        肯定には、わざと明るい声を使用した。
        「んー、しゃあないんやけどな。」
        皐も似た様な思いを抱いていた事、
        けれど明るい声でそれに答えた事の意味を感じ取り、和葉が少しだけ眉を下げて微笑む。
        「でもまぁ、そんなんも今だけやし、時期にパーッとやれる時が来るって。
        ふふん、意外にお子様なんやから。」
        皐も和葉も、仲間内では姉御肌で通っていて、友人からは色々と頼りにされる事が多い。
        けれど、二人の時は、どこか自分に甘えた様な態度を見せる和葉が嬉しくて、
        皐はわざと茶化して唇の端を吊り上げた。
        「もう、その言い方やと、あたしが騒げんでふてくされとるみたいやん。」
        「あれ? ちゃうの?」
        「ちゃうよ!! だいたいあたしはそれだけやのうて・・・。」
        その言葉に頬をふくらませる和葉に、尚もからかう様に言い募ると、
        和葉は皐を軽く睨んで何事か言いかけたが、
        何故か途中で、ぴたりとその言葉を閉じた。
        「何?」
        「・・・別に。」
        「ふーん、まぁ、わかっとるけど。」
        「・・・何よ?」
        誤魔化してみせたにも関わらず、したり顔の皐の言葉には、つい疑問を返してしまう。
        そんな和葉の様子に、皐は意味ありげな笑みを浮かべつつ、
        一文字一文字を丁寧に発音した人物名で答えてみせた。

        「服部平次。」

        「はあっ!?」
        唐突に幼なじみの名を出され、和葉は思わず大声を上げてしまったが、
        皐は得意な様子を崩す事なく、言葉を続ける。
        「とぼけてもあかんて、服部の志望校、わからんから元気ないんやろ?」
        「な・・・ちゃうよ。」
        「え? 知っとんの?」
        「知らんけど・・・。そうやのうて、」
        「まぁまぁ。服部、事件や推理にかまけんかったら成績ええし、
        あれで部活終わって勉強一本にしぼったら、
        東京の名門校も間違いない言われてるもんなぁ?
        となると遠距離恋愛・・・和葉が元気なくなるのもわかるわ〜。」
        「せやから、そうやないってば!!」
        否定的な言葉を繰り返す和葉に構わず、勝手な解釈で語り続け、
        しまいには遠距離恋愛などという所にまで話を飛ばす皐に、思わず和葉が声を張り上げる。
        中庭で花壇の整備をしていた生徒が数名、何事かと、頭上にいる二人を見上げた。
        「・・・そうやなくって、」
        注目を浴びてしまった事に顔を赤くし、
        視線から逃れる様に窓枠に背を預けながら、和葉が気まずそうにつぶやきを漏らす。
        「え、ちゃうの?」
        今だ自論に対する自信の衰えぬ皐は、
        そんな和葉の様子にやや目を見開き、友人の顔をのぞきこんだ。
        「ちゃうよ・・・あたしは・・・・・・高校入る頃には、皐が行ってまうから・・・。」
        「へ? あたし?」
        皐は、家の事情により、中学卒業と同時に和歌山に引っ越す事が決まっている。
        志望校も、新居を基準に考えていると、
        仲の良い友人には一月程前に話していたし、
        皆、様々にその事を悲しんだり寂しがったりしてくれたものだが、
        今も尚、その事が和葉の胸を占めているとは思いもしなかった。
        寝耳に水としか言い様のない、そんな和葉の言葉に、
        皐はしばし、疑問を返した口を閉じる事を忘れ、瞬いた。
        「・・・皐は皐で大変なんやし、黙っとこうと思てたのに・・・・・・。」
        結局、白状する形になってしまったと、
        和葉はきまり悪そうに両手を合わせてもじもじと動かしたが、
        そんな和葉の様子に、思わず皐は、
        「うわーーーっっ!! かわえーーーっっ!!」
        と、突如として、先程の和葉以上の大声を張り上げつつ、
        歓喜の表現とばかりに、思い切り良く和葉の体を抱きしめた。
        「ちょっ、皐!?」
        突然の出来事に和葉はまったく対処出来ず、慌てた声を返すばかりである。
        先程以上の騒ぎに、中庭の生徒が再び視線をよこしたが、
        そんな事はおかまいなしの皐は、和葉を抱きしめる力をどんどん強め、頬ずりまでし始めた。
        「あたしがおらん様になるから元気なかったん!?
        もーう、何て可愛いんーーーっ!! 服部平次かんにーん!!」
        「アホーーーッ!!」