宵待草の花の色 3
平次に引き止められ、和葉は足を止めると、
前を見つめ続けていた視線を、ゆっくりと平次へと移した。
数時間前に不当な扱いを受け、それについては一言も無いまま、
今また不当な言葉を受け、怒りは絶頂と言っても良かったが、
この幼なじみが、冗談めかす様にでも、やり過ごす様にでも無く、
こんなトーンで自分に謝罪するのは、かなり珍しい事である。
「・・・・・・。」
「何やねん。」
少し目を見開いて、自分を見上げる和葉に、平然を装いつつも動揺する。
この女だけは、何を考えているのか見当もつかない。
それでも一応の謝罪に、相手がこちらに目を向けてくれたのは、
事態の好転と考えても良いのだろうか。
「・・・・・・。」
一度は謝罪したものの、やはり普段と変わらぬ態度の平次に、
何と言葉を返したものか計りかねて、和葉は再び歩き出した。
平次は一瞬焦るものの、その速度が緩やかである事にこっそり息をつき、横に並ぶ。
そうして、いまだ反省の色が無いと取られても仕方ないが、
これを聞かない事には始まらないと、
先程からの最大の疑問である一言を、静かに口にした。
「・・・誰やねん、あいつ。」
「・・・彼氏や、」
しばしの沈黙の後、返された言葉に、平次の頭が一瞬にして真っ白になる。
しかしその単語に、
「友達の。」
という言葉が続いたのも一瞬の事で、
和葉にしてみれば、普通に話しているだけに過ぎないので、
どんなに心臓に悪くとも、それを責める事は出来ない。
だいたい悪い考えが渦巻きすぎている。
友達の彼氏だと、言ってるでは無いか。
そう、友達の・・・。
「ああっ!?」
「せやから、彼氏や、友達の。」
思わず声を上げる平次に、聞こえなかったのかとでも言うように、
和葉は眉根を寄せて、同じ台詞を繰り返した。
「・・・何でそんなんと、お前がおらなアカンねん。」
それもこんな時間まで、二人っきりで。
追求すべき点は多々あったが、なるべく根ほり葉ほりにならぬよう、
平次は疑問点を口にした。
「・・・今日あたしな、幼なじみに誘われたんよ、
知り合いに聞いた店に食事に行かんか言うて。」
「・・・・・・。」
もしかしなくとも自分の事である。
何言い出すんやこいつと思いつつも、静かなトーンが妙に恐ろしいのは気のせいだろうか。
平次は黙って和葉の話の先を待った。
「そしたらまぁ、見事にすっぽかされてな、携帯に連絡入れたら、
誰と何しとるか知らんけど、東京に居てる言うし、携帯は一方的に切られるし、
そんな忙しい人待っとっても仕方ないやろ?」
「・・・・・・。」
静かなトーンは、笑みすら含んでいる様な軽やかさを見せるが、
賭けても良い、目は笑っていない。
相手の顔を見る事も出来ず、額に汗を浮かべたまま、
「そうですね。」などと、敬語で答えてしまいそうになるのを抑えて、平次は固唾を呑んだ。
「せやからそのまま帰ろ思たら中学ん時の友達に会うてな、北見香。」
その名前は平次も知っていた。
和葉の友人で、中学時代は同じクラスだった事もある、物静かな印象の少女である。
「香も相手にすっぽかされた言うから、二人で食事して、映画観て、
寝屋川戻って来たら、さっきの、柳沢君が駅前で待っとってな。」
平次が知らないだろうと考えてか、和葉が柳沢の名前を言いよどんだが、
拍車をかけて自分を苛立たせた、和葉が呼んだその名前はしっかりと記憶にあった。
「そっからは、三人であのファミレス寄って・・・話し合いや。
二人共大人しい方やから、なかなか話は進まんし、
邪魔やから帰ろ思ても居てくれ言われるし、終いには香が泣いて帰ってしもた。」
そうして、残された二人でどうしたものかと考えあぐねている所に平次が通りかかったのだろう。
・・・完全な誤解である。
今になって、自分のしでかした、あまりにも「アツイ」行動に、
平次は頬の温度が上がっていくのを感じていた。
「まぁ、電話する様に言うたし、あたしも折を見て香に連絡してみるけど。」
最後に和葉が柳沢に告げた一言、
これまた誤解していた一言の謎が解け、平次はいよいよ自己嫌悪に陥った。
「・・・誕生日、やったんやて、柳沢君の。」
沈黙したままの平次に、和葉は構わず話を続けた。
「そんで香も、色々考えたり用意したりしとったんやけど、
柳沢君バイトが長引いたみたいでな、結局すっぽかす事になってしもたみたいで・・・。」
バイト先で、仕事が長引いて、
どんなに連絡したくても、出来ない状況がある事は、和葉には想像がつく。
そういう事にルーズな職場がある様に、ルーズでない職場も、必ず存在するのだ。
更には上下関係や、職場での立場によっても、
女の子に連絡を取るという行為が容易で無い状況というのもあるのだろう。
それは、そういう相手と付き合って行く上では、
わかっていなければならない事だと思う。
けれど和葉は香の味方でいたい。
180度好みの違う映画のチケットを用意して、
美味しい店を調べて、カバンの中にはプレゼントを用意して、
お気に入りの洋服を着て、「久しぶりに会うんだ。」と微笑む、
そんな香の味方でいたい。
当事者で無い自分には、
柳沢に対して、ただ泣く事しか出来ないでいた、
香の背中をなでる事しか出来なかったけれど。
「・・・・・・。」
焦りや自己嫌悪に陥っていたものの、
北見香と柳沢に関する和葉の説明を総括してみれば、
隣りにいるのは、完全な痴話喧嘩に巻き込まれたただのお人好しである。
アホやなぁと思いつつも、まるで自分の事の様に、
友人に起こった出来事に対して眉根を寄せて考え込む横顔には弱い。
けれど優しい言葉をかける事も出来ず、
平次は二回、和葉の頭を軽く叩いた。
「な、何・・・?」
「お前がそんな顔しとってもしゃーないやろ。
また北見が何か言って来たら話聞いたればええし、
あの男も、駅でずっと待っとったくらいやし、
お互い嫌いやなかったら、これ以上はこじれんやろ。」
普段なら、放っとけの一言で済ます問題に、
やけにきちんとした意見を提示してみせる。
誤解が解けたせいか、誤解していたが故か、柳沢に対しても幾分好意的だった。
まぁ、和葉をこれ以上悩ませない為の、甚だ楽観的な意見ではあるのだが。
「・・・・・・。」
こと恋愛沙汰に関して、平次からそんな助言を受けるとは思っていなかった和葉は、
しばし呆然として隣りの幼なじみを見やった。
「・・・せやね。」
それでも眉をほころばせ、和葉が少しだけ微笑んでそうつぶやく。
何故だか昔から、平次が発する言葉には、確証や裏付けが無くとも安心する事が出来た。
その様子を見て、平次も思わず目を細めかけたが、
続いて発せられた和葉の言葉に、その目は細まるどころか広がった。
「・・・ところで、あたしまだ怒っとんのやけど。」