気づかず優しく 1


        十九時帰宅。
        思ったより遅くなった、などと、考えるよりも早く眠りにつきたい。
        単車を車庫に入れ、玄関の戸に手をかける。
        ガラリと抵抗無く開いた戸口に、
        今夜は揃って出掛けると言っていた両親の言葉を思い出し、
        一瞬いぶかしんだものの、入れ違いに出掛けるくらいだろうと考え、
        放任主義の彼らに特別引き止められる心配は無いと、
        自室に急行し、睡眠をむさぼる事に思いを馳せつつ、
        平次が玄関に足を踏み入れた時だった、
        それは無理だと言う様に、パタパタと軽やかなスリッパの音が廊下に響き、
        放任主義では無い幼なじみの、怒った表情が彼を出迎えた。
        「やっと帰って来た!!
        もう、おばちゃんが夕方には帰って来る言うとったから待ってたのに、
        なかなか帰って来んのやから!!」
        「・・・お前が当たり前の様に俺ん家にいる様に、
        俺がいつ帰って来ようと俺の勝手じゃ。」
        どさりと玄関にリュックを置き、
        当たり前の相手の来訪の意図を尋ねる事無く毒づいて、
        座り込んでシューズを脱ぎにかかる。
        正直、もう立ち上がりたくない程に体が重い。
        「なっ・・・あたしかて来たくて来たんとちゃうわ!!
        物理のノート!! 今週中には返す言うといてそのままやん!!」
        「あー・・・・・・。」
        もはや、回転が鈍くなりつつある頭で考える。
        水曜日に和葉に借りた物理のノートの内容をざかざかと頭に詰め込み、
        明後日には返すという約束でようやく借りたそれを、
        金曜日に返すべく、学生カバンに収めたまでは良かったが、
        その日になって急に事件の依頼が入り、
        放課後は準備をすべく、一目散で家へと帰った為、
        日曜日の夜を迎えた今となっても、
        問題のノートは依然、自分の学生カバンの中である。
        「せやったな、けど月曜の朝かて授業には間に合うし、
        そない急がんでもええやんけ。
        まぁ、休日でも俺に会いたいゆう気持ちもわかるけどな。」
        思い返して、完全に自分が悪いと思いつつも、
        殊勝に謝る間柄でも無いと、やっとの思いで立ち上がって玄関へと上がりつつ、
        そんな冗談で茶を濁そうと考えたのがまずかった。
        途端、和葉は柳眉を逆立て、
        「なっ、何アホな事言うとんの!?
        月曜には小テストがあんの忘れたん!?
        そやなかったら誰もわざわざ休みの日まであんたの顔見に来たりせぇへんわ!!」
        「あー・・・・・・。」
        無論冗談だ。
        冗談に過ぎない。
        いくら何でも、そんな都合の良い事を、本気で思っていたりはしない。
        だが、しかし、それにしたって、
        そこまで力一杯、顔を真っ赤にして怒ってまで、否定しなくても良いのではないだろうか。
        すっかり忘れていた月曜の小テストの件も相俟って、
        平次の疲れはいよいよピークに達した。
        「だいたい、きちんと約束守りもせんと・・・。」
        「わかった。」
        玄関からの廊下を歩き、自室を目指すも、そこまで行く気力もなく、
        平次は目に付いた客間の障子を開けながら、
        いまだ自分に対する文句を言い募る和葉を、静かな言葉で制した。
        「え?」
        「俺が、まったくもって、全面的に悪かった、
        ノートは部屋のカバンの中に入っとるから、勝手に持って帰ってええから、」
        「な・・・。」
        棒読みの様にそんな言葉を発する平次に、和葉はどう返して良いかわからず、
        口を開いたまま絶句する。
        しかし、明かりも点けずに客間の畳の上に荷物と共にどかりと座り込んだ平次が、
        「せやから、ちょお、寝かせ。」
        と、据わった目で自分を見上げた時、
        ようやく平次の疲労と不機嫌を察し、
        和葉はぴたりと口をつぐみ、そのまま二歩、後退した。
        そんな和葉を確認したかしないかの内に、平次はその場にごろりと横になると、
        そのまま、宣言通りに眠りの世界へと旅出った。


        「・・・・・・。」
        きっちりと、それでも音を立てぬよう、静かに障子を閉めて廊下に出る。
        屋内とはいえ、秋の気温に支配され、靴下越しにもひんやりとした廊下の感触に、
        客間は寒くは無いだろうかと考えるも、
        平次の態度を思い出し、和葉は全速力でそんな考えを頭から遠ざけた。

        金曜までの約束だったし。
        月曜のテストに備えて、ノートが無いと困るのは事実だったし。
        そりゃあ、会えたらなって思うたけど・・・。
        あんなに、何でもない顔をして、ただの冗談として、
        図星をつかなくても良いではないか。
        結果、一人で取り乱して、うるさいと思われて、
        こうして廊下でたたずんでいる自分がいる。
        ・・・でも、金曜までの約束だったし。
        そんな考えを胸中で繰り返しても、頭は段々と下がって来てしまう。
        「・・・あたし、悪ないもん・・・。」
        元気が出ないとわかってはいても、そんな言葉を唇から発し、
        平次に言われた通り、平次の部屋に自分のノートを取りに行こうと、
        のろのろと、和葉が足を動かした時だった。
        突如として、服部家全体に電話の機械音が響き渡る。
        「あ・・・。」
        所々に点在する電話機の一斉の大合唱により、
        客間で眠る平次が起きてしまう事を気にしつつ、和葉は大慌てで、
        ツーコール目が響く間も無く、廊下の突き当たりの棚に置かれた子機を取り上げた。

        「はい、もしもし。」
        「もしもし? 服部さんのお宅でしょうか?」
        電話越しに聞こえる声は、中年の女性のもので、
        静華の知り合いだろうかと考えつつ、
        和葉は応対の声が客間に届かぬよう、その場から移動しつつ、返答を返した。
        「あの、平次さんはもうお帰りでしょうか?」
        「は・・・。」
        てっきり静華の知人だと考え、
        平蔵と共に知人の家に招かれて出掛けた旨を伝えようと考えていた和葉は、
        予期せぬ平次の名前に驚き、言いよどんだが、
        相手はせっかちな性分なのか、
        そんな和葉の態度が平次の不在を示していると考えたらしく、
        「そうですよねぇ、まだ着くはずありませんよねぇ。
        本当に、今回はとんだご迷惑をおかけしてしまって・・・。」
        と、すまなそうな口調で、一方的に話を進めた。
        「迷惑・・・。」
        相づちとも疑問ともつかない和葉の言葉に相手の女は、
        「ええ。あ、失礼しました。私、長野の香坂と申します。
        今回お宅の平次さんに事件の依頼をした・・・。」
        と、少し慌ててそんな言葉を言い添えた。
        「あ、いえ・・・お世話様です。」
        そういえば、金曜は事件があるからと急いで帰って行ったが、
        よもや長野だったとは。
        そして、平次は夕方には帰るからと言って出掛けた静華の言葉と、
        この電話相手の言葉から察するに、
        金曜から今日まで、平次は長野にいたという事だろうか。
        平次の疲れた様子に意識を飛ばす和葉に対し、
        香坂夫人、恐らくは夫人と思われる彼女は、よどみなく言葉を続ける。
        「いえ、こちらこそ大変お世話になりまして・・・。
        何ですか、身内の事でお恥ずかしい限りなんですが、
        いきなり呼びつけるという不躾な事をしてしまいましたのに、
        金曜の晩には来て頂いて、そこからたった二日で・・・。
        お噂には聞いておりましたが、本当に感服致しました。」
        「いいえ、何か失礼がなければ良いのですが・・・。」
        香坂夫人の言葉は漠然としてはいたが、
        香坂家で起きた、何事かの事件を平次が解決した事を指し示していた。
        ケガはしていなかった様だったが、また無茶な事はしていないだろうか。
        頭でそんな事を考えつつも、和葉は家人の如き応対を相手に返した。
        「いいえ、とんでもない。
        それに、失礼ながらこちらで用意させて頂きました、その、薄謝ですが・・・
        こちらもお受け取りにならずに帰ってしまわれたので、
        心苦しく思いましてお電話した次第ですの。
        その上、金曜の晩からほとんど寝ずに、事件にかかって下さったので、
        そのまま帰られたお体の事も考えまして・・・。」
        「き、金曜の晩からですか?」
        「ええ、あのう、事件の資料と向き合われて・・・今日、解決して下さるまで・・・。
        本当に、申し訳ありません。」
        思わず声を上げてしまった和葉の言葉を非難に感じたのか、
        そんな顛末を話す香坂夫人は、受話器の向こうで恐縮している様だった。
        「あ、いえ、失礼しました、お気になさらないで下さい。
        あの、本人が・・・帰りましたら改めてご連絡させて頂きますので。
        お忙しい中、わざわざありがとうございました。」
        懇意にしているとはいえ、他人の家の電話に出ているにも関わらず、
        思わず感情を前面に出しにしてしまった事を赤面しつつ詫びて、
        その上嘘をつく事に対し、一瞬気が咎めたが、そんな言葉を述べ、
        それでは申し訳ないので、また改めて電話をすると言う香坂夫人と二、三語やり取りした後、
        和葉は静かに子機の電源を切った。