秋雨想起 1
「えー、帰れなくなったん? 今日は早いって言うから、
お父ちゃんの好物ぎょうさん作ったのに・・・。」
台所で湯気を立てている二つの鍋を情けない表情で見やって、
和葉は残念そうな声を受話器に落とした。
「そうか、すまんなぁ・・・。」
急な仕事の詳細を、言い訳に代えて電話口で話す様な父ではない。
自分同様に落胆した声に眉を下げつつも、
「ええよ、仕事やもん。」
と、即座に切り替えた明るい声で返すと、
何故だか、奇妙な沈黙が走り、
「・・・・・・大丈夫か?」
数秒後、探る様な、ぎこちない声。
「ええ?」
らしくない父の声音に、思わず漏れた笑いと共に聞き返してしまったが、
ふと思い当たり、笑顔が苦笑いへと変化する。
窓から見える萩の花を、秋の長雨が優しく濡らしている。
そういえば丁度、こんな時期だった。
季節が父へも思い出を運んだのだろうかと、
和葉は失敗してしまった水墨画の様ににじんだ、高く淡い、菫色の空を見上げた。
一度だけ、父に、大嫌いだと言ってしまった事がある。
「遠山さん、六月のあれなぁ、市の展覧会に出す事に決まったから。」
帰り際に教えられた、担任教師の言葉を胸中で繰り返し、
カタカタと鳴る、背中のランドセルの心地良い音と共に家路を急ぐ。
一番に報告したい相手は、夕方までは家で休んでいるはずだ。
「お父ちゃん!! あのな・・・!!」
靴を揃える事も忘れて、父のいる部屋へ飛び込むと、
着物を着て、ごろりと横になり、新聞の影から優しい笑顔をのぞかせるはずの父は、
神妙な面持ちでネクタイを締め、出掛ける準備を整えた所で、
「おう和葉、お帰り。
すまんがお父ちゃん、これからすぐ出掛けなあかんのや。」
軽く和葉の頭をなでながら、目線を合わせてそう言い聞かせる。
「あ・・・うん、いってらっしゃい。」
夕方までの休息を、昼過ぎで切り上げなければならない理由は、
小学生とはいえ、刑事の家に生まれ育った娘ならばわかる。
疲労の抜け気っていない父の顔を見つめて、
それ以上、何も言う事は出来ず、和葉は精一杯の笑顔でそう答えた。
・・・今度、帰って来たら、
今度帰って来たら聞いて貰お。
父の閉めた玄関の扉をしばらく見つめ、
自分が脱ぎ散らかした靴を揃えながらそんな事を考える。
しかし、それからしばらく、父が家へ帰る事はなかった。