そして本日も何事も無く 3
昨晩、明日の練習試合の差し入れの下ごしらえを終え、
朝も早いので、そろそろ就寝の準備をしようかと和葉が考えた矢先、
ふいに玄関のチャイムが鳴り響いた。
「平次・・・どないしたん?」
こんな時間に訪れた幼なじみに、また何事かあったのかと和葉は眉をひそめつつ尋ねたが、
返された答えは袋にも入れられず、無造作に丸められた剣道着で、
「さっき家で稽古しとったら肩んとこほつれてしもうてな、
明日、試合あんのに、おかんがおらんから替えの道着の場所もわからんし・・・。
応急でええから縫ってくれへんか?」
正直、何事も身につけておかねばならない探偵として、
裁縫が出来ない訳ではなかったし、
静華が不在とはいえ、家中ひっかきまわせば道着の一着くらいはすぐに見つかるのだが、
平次は気がつけば和葉の家に向かい、そんな言葉を口にしていた。
「しゃあないなぁ・・・おばちゃん旅行中やもんね、ええよ。」
仕方なく、という前提を置きつつも、
平次がこういう時に自分を頼りにしてくれた事が嬉しくて、
和葉は表情をほころばせつつ、柔らかに承諾の意を告げると、
平次から剣道着を受け取った。
「そんなら、上がって待っとく? お茶入れるけど。」
何気なくそう言ってから、
お茶を飲む、平次の横で裁縫する自分を想像し、
和葉は何となく赤面しかけたが、
平次は当たり前の様に、
「おお。」
と短く答え、スニーカーを脱ぎかけた。
しかし、
「おお、平次君やないか、どないしたんや?」
丁度、風呂から上がったらしい和葉の父親が浴衣姿で奥から現れたのを目にした途端、
平次の足は瞬時の内に、脱ぎかけたスニーカーの中に再び収納された。
「こっ・・・んばんは。ちょお、かずは・・ちゃんに用事があって・・・。」
いくら何でも、普段なら、
和葉の父とはいえ、ここまで緊張する事も無いのだが、
こうなってしまったのは、
一方的な用件で訪ねている時間が時間である事と、
絶対にいないと踏んでいた人間の存在に驚いた為である。
「そうかそうか、俺もかかってた事件が解決して今帰って来た所や。
ゆっくりしてくとええわ。何やったら一杯やってくか?」
「もう、打ち上げで散々飲んで来たんやろ。
だいたい高校生相手に何言うとんの!!」
「あ、や、帰る・・わ。」
平次の緊張とは裏腹に、和葉の父は酒気帯びという事もあってか、
気さくにそんな言葉をかけて来たが、
それに対して怒る和葉とのやり取りに割り込む様に、
平次はしどろもどろでそんな言葉を返すと、
和葉に剣道着の件を再確認する様に片手を挙げ、
「あっ、ちょお、平次!?」
という和葉の言葉を背中に聞きつつ、
瞬く間に遠山家を後にして行ってしまった。
そんな娘とその幼なじみの様子をながめていた和葉の父は、
「落ち着き無い所は平蔵と似とらんなぁ。」
と、慌ただしい事この上ない、
幼なじみの息子に対し、しみじみと、そんな感想をもらした。
「あの事件、解決したんか・・・。」
夜道を走りつつ、そんな事を独りごちる。
この分だと、自分の父親も帰宅しているだろう。
強盗事件の捜査の為、しばらくは二人共府警に詰めるという話だったのだが。
しかし、まぁ、だからといって、
その隙を狙って和葉を訪ねて行った訳では無い。
行き易いと思ったのは事実だが、
今の間柄で、さすがにそんなとんでもない事は考えてはいない。
ただ、何となく、何気ない時間を過ごせればと思ったに過ぎないのだが、
らしくない事この上ない事を思った報いは、
清々しいまでの表情で、風呂場から登場した。
目をかけられている、などと大滝などは評するし、
世間一般の父親というものに対すれば、
和葉の父は平次に対し、幼なじみの息子という事もあり、
酒が入った時などは特に愛想良く接してくれるのだが、
どうにもこうにもやりにくさが生じてしまうのは仕方のない事である。
「もう、お茶くらい飲んでったらええのに・・・。」
平次の突然の退去の理由には気づかずに、
和葉は剣道着を手にしたまま、大慌てで帰って行った幼なじみに頬を膨らませる。
「和葉チャンの顔見られたら満足、っちゅう事やないのか?
やりよんな、お前も。」
「・・・何アホな事言うとんの・・・。」
酒の入った上機嫌さで、歌う様にそんな事を言い、
居間へと入って行く父親に対し、
和葉は照れるでも無く、呆れた様にそんな言葉をつぶやいた。
実際の所、平次の当初の目的はそれに近いものがあったのだが、
和葉にしてみれば、今夜の平次の行動は、
汚れた剣道着を押しつけて、さっさと帰って行くという、
縦横無尽な行為にしか思えなかった。
そう、汚れた・・・。
「なっ・・・!!」
そこまで考えて、和葉は手にした剣道着に目を止め、
思わず驚愕の声を上げた。
脱いで丸めて持って来たという現状を隠そうともしない平次の剣道着は、
黒袴である事から、一見わかりにくいが、
黒さの上に更なる汚れが浮き立っており、
平次が依頼した肩の部分のほつれが一番目立つとはいえ、
それ以外にも、所々に無惨な傷が出来ていた。
しかも、汗くさい。
「どういう稽古しとんのよ・・・。」
自分を頼ってくれた事は嬉しかったが、
顔が見たいと思うだけで訪ねて来る様な相手にこんな物を預けて行く訳がないと、
父親の言葉に対し、胸中で二度目の否定を繰り返し、
和葉はややむなしくなって嘆息した。
けれど、いくら頼まれたのが肩の部分の縫合だけとはいえ、
その部分だけを修繕しても、
他の部分の汚れやほつれは目にあまる。
明日は他校で試合なのに、剣道着がこの状態では可哀想だからと、
風呂場にこもり、丹念に、丁寧に手洗いを繰り返して汚れを取り、
極力ソフトに、時間をかけて乾燥機にかけ、
肩だけにとどまらないほつれをすべて繕って、
糊付けとアイロンを済ませた頃には、時間は深夜を回っていた。
それでも、朝は予定の時間よりも早めに起きて、
平次が心配しないよう、剣道着を届けに行ったにも関わらず、
その相手はと言えば、何が気に入らないのか知らないが、
今日は、というか試合後は、目に見えて不機嫌である。
大勢の女の子にでれでれしていたくせにと、
怒っているのは自分の方だと言うのに・・・。