新緑の恋を知る 4


        「・・・何笑てんねん。」
        目覚めた、と言うべきか、
        本来、加藤龍之介に向けられるべき剣を、
        その威力を何万分の一かに変えて頭上に下ろされた事で目を覚ました和葉に、
        図書室に来た理由を問われて、平次の口から出たのは、
        葛城士朗に感謝すべきか、彼が提示した竹刀の一件で、
        和葉は文句を言いつつも平次の隣りに並び、剣道場へと向かっている。
        ちなみに、和葉が例の後輩を誘ったものの、
        彼がその額に目に見える程の冷や汗を浮かべて遠慮し、その場にとどまるに至ったのは、
        まったくもって平次のあずかり知らぬ所である。
        二人で図書室からの廊下を進みながら、
        いつもの様に口喧嘩を交わしつつ角を曲がり、ふと和葉に視線を戻し、
        平次は幼なじみが浮かべる、深い、見とれんばかりの微笑に驚き、
        状況に合わぬその表情に目を見開きつつも、静かに疑問を投げかけた。

        「へっ!? あっ・・・と、何でもあれへんよ?」
        表情を見られた事に驚き、笑顔を一転して、必要以上に慌てる和葉の様子を見て、
        平次の眉間に見る見る内にシワが寄って行く。
        「はん、奢る言われて喜んどんのやろ、意地汚い女やなー。」
        「なっ・・・そんなんとちゃうよ!!」
        「・・・・・・。」
        ・・・ほんなら誘われたんが嬉しかったんかい。
        和葉の態度をどこまでも曲解して、平次の眉間のシワは深まるばかりであるが、
        和葉にしてみれば、平次の行動に喜んでいたのを、本人によって水を差され、
        わかったらわかったで困るのだが、こうも勘違いされるのも悲しいと、
        否定以外の言葉が上手く出て来ない。
        無論、その事については触れず、
        「・・・そう言うたらごちそうしてくれる言うのについ乗ってしもたけど、
        結構楽しかったのにお礼やなんて悪い事したわ。今度会ったらええって言わんとな。」
        と、何かを奢ると申し出た後輩の一件を口にし、すまなそうに笑ってみせた。
        それは、平次の言葉によってその件を思い出したからこその言葉であり、
        微笑の起源がまったく別の事柄である事をも示してもいるのだが、
        無意識故のその言葉に、かの名探偵は誤解を悟るどころか、
        ますますその機嫌を下降させた。
        「・・・本棚の入れ替えが楽しいやなんて変わっとんな。」
        出来れば変わり者であって欲しいと思いつつ、そんな言葉を口にするが、
        「まぁそれは災難やったけど、龍之介君がおもろい子やったし・・・。」
        平次の言葉の裏にはまったく気づかず、和葉はそんな返事を返し、
        龍之介との会話を思い出すかの様に微笑を浮かべた。
        その言葉と、先程の笑顔程では無いものの、他の人間を思い浮かべたその微笑に、
        平次の心はこれ以上無いと言う程に苛立って行く。
        「龍之介、って名前か?」
        和葉の言葉を受けて、先程から気になっていた事柄につながる言葉を、
        感情を抑えつつ、なるべくさりげなく口にしてみせたが、そんな苗字があるはずも無い事は、
        西の名探偵の膨大な知識や経験をもってせずとも、分かり切った事である。
        「ああ、うん、苗字は加藤君やったかな、加藤龍之介君。
        あんま自分の名前、気に入っとらんかったみたいやから、そんで・・・。」
        「相手が気に入っとらんのに、わざわざ名前で呼ぶんかお前、性格悪い女やなー。」
        平次の意図には気づかずに、素直に龍之介の名前と、
        彼を名前で呼ぶに至った経緯を和葉が口にしたが、
        何がどうあれ、それが気に入らない平次が途端に混ぜ返す。
        「そんな訳無いやろ!! ええ名前や思たから・・・。」
        平次の言葉を、単なるからかいと考えて、和葉が声を張り上げる。
        しかし、平次はそれ以上の説明は聞く耳を持たぬ様に、
        つまらなそうな視線を前方へと向けている。
        元よりさして興味も無いのだろうと、和葉は説明をあきらめ嘆息した。
        「まったく・・・。
        せやけどあれやね、葛城君なんかもそうやけど、やっぱり可愛いわ、一年生は。」
        話題転換の為とはいえ、ふいにそんな言葉が出てきてしまったのは、
        何故か先程から面白くなさそうにしている隣りの二年生のせいかもしれない。
        それでも、女の子に人気の高そうな外見や性格であるにも関わらず、
        一人の人を想っているらしい龍之介の事を思い出して、
        やはり可愛いなぁと、和葉は自然な笑みを漏らした。
        その想い人が、よもや自分であろうとは、露程も思わないのだが。


        「・・・・・・。」
        何されかけとったか気づきもせんと、何が可愛いじゃボケ。
        またも微笑を浮かべる和葉に、平次が心の中で悪態をつく。
        だいたいこの女はまったく気づいていないのだ、
        呑気に居眠りしている間の出来事も、
        入り口に張られたマグネットシートの意味する所も、
        加藤龍之介の奢りの申し出の理由も、
        もちろんその気持ちにすらも。
        それはそれで良しとする所で、
        重ねて、平次が図書室に来た理由も、
        今現在不機嫌な訳も、
        もちろんその気持ちにすら、気づいていない事も、
        それはそれで構わなくはあるのだが、
        この危機感の無さと無防備さは問題である。
        「・・・あないな所で寝とんなや。」
        すべての思いを総括して、ようやく出た言葉がこれである。
        我ながら・・・と、自責する平次に、
        和葉はきょとんとして、
        「へっ? 何で?」
        と聞き返した。
        よくよく考えれば、図書室の床に座り込み、うたた寝をするという行為が、
        万人の支持を受ける訳では無い事は和葉にもわかるのだが、
        咄嗟にそんな言葉が出て来てしまったのは、
        まったく会話の流れと関係の無い、そんな言葉を、唐突に平次が言い出した為である。
        「・・・・・・危ないやろ。」
        和葉の疑問の大半が、葛藤故の自分の唐突な話題転換にあるとは気づかず、
        この少年にしてはかなり親切に、かつ直接的に、平次はぼそりとそんな言葉を口にした。
        「ああ。」
        平次の言葉を受けて、和葉が納得した様に頷く。
        ようやくか・・・と思うと同時に、それを危惧した自分の感情を見透かされたらと、
        平次は思いを巡らせたが、続けて和葉の口から発せられた台詞は、
        「財布でも抜かれたらかなわんしなぁ。
        でもすぐに龍之介君が戻って来とったみたいやし。」
        といったもので、
        「・・・・・・。」
        なんっっでそうなんねん!!
        それが危ないっちゅーとんじゃ!!
        二段ボケに対し、心の中で二段ツッコミを返しつつも、
        やり場の無いもどかしさに、平次は片手を腰にあて、
        もう片方の手に持った木刀の柄で、自分の額をゴツゴツと叩いた。
        「どないしたん? あ、わかった、呆れとんのやろ?
        しゃーないやん、暗がりで本読んどったら眠くなってしもたんやもん。」
        平次の態度を曲解し、和葉が照れ笑いを浮かべつつ弁解する。
        「・・・何読んどったんや?」
        とことん脱線しまくる相手に、これ以上突っ込んだらボロが出る、そう考え、
        平次は和葉の話題に乗る事で平常心を取り戻そうとしたが、
        何故か和葉は一瞬、ぴたりと黙り込み、
        「・・・さあ、何やったやろ。」
        と空とぼけた。
        そういえば、自分が起こした後で何かの本を棚にしまっていたと、
        名探偵の注意力は記憶しているのだが、
        服部平次としての全神経は他の事柄へと総動員されていたので、
        本のタイトルまでは記憶に無い。
        「けど、やっぱりうたた寝はあかんなぁ、少しの間なのに体痛いわ。」
        平次の思考をそらす為か、肩を押さえながら和葉が嘆く。
        「当たり前じゃボケ。」
        今までの遺恨を晴らすかの様に、平次はそんな悪態で和葉の嘆きを切り捨てたが、
        「また・・・。」
        と、平次の言葉に眉をしかめてみせた和葉が、
        思案する様に一拍置いて、

        「でも、平次の隣りやったら、寝心地ええんやけどな・・・。」

        と、つぶやいた一言には、どんな言葉も、返す余裕を封じられた。