新緑の恋を知る 3
一時間だ。いや、一時間にも満たない。
一時間目の社会科の授業、資料の不備に気がついた教師の松島が、
あの言動であるにも関わらず、同性の方が気楽だと考えたのか、
女子の日直である和葉を伴って社会科準備室に向かい、
その後、図書室でちょっとした事故が起きたからと一人で戻り、
和葉が二時間目が始まる直前に戻るまで、一時間にも満たない。
顧問と部活仲間に適当な事を言って剣道場から抜け出して、
あの食えない後輩が後ろにいない事を確認して、大股で廊下を行く。
士朗の話す、和葉と行動を共にしている人間の性格に危惧を憶えるものの、
あからさまな士朗の言葉に乗るのもしゃくだと、
和葉の武道の腕も考え、無関心を決め込んだが、
戦法を変えたのか、わざとらしさ一直線の士朗の言葉には、
怒るのも、これ以上相手をするのも馬鹿馬鹿しいと考え、
平次は彼の意図に従う形で道場を後にした。
恐らくはそこまで読んでいたのだろうとは思うが、
平次が「仕方ない。」というニュアンスで行動するに至るよう、し向ける辺り、
あの食えない後輩を憎めないと思わせる要因なのであろうか。
結果として、自分の意向に沿っている事も確かではある。
まぁ、根底にあるものが親切心では無く、
面白さを追求するが故という事は、西の名探偵はとうに見抜いてはいたが。
二股、惚れ込む、後先考えない、手も早い、チャンス、決め時、
一人になった途端、自分の記憶力が疎ましくなる程、
士朗が同級生を評価した単語が脳裏に浮かぶ。
同時に、
「せやねぇ、災難やったけど、なんや明るくておもろそうな子やったし、
話しながら片付けたらすぐ終わるやろ。」
などと、のんきに笑って放課後の予定を語ってみせた幼なじみの様子も。
女や思っとったわ。
西の名探偵としては手痛いミスではあるが、
情報が少なかった事と、情報提供者の危機感の無さが原因とも言える。
だいたいあいつはいっつも・・・。
眉間にシワを寄せ、一応体裁を考えているのか闊歩であるものの、
走っているのと変わらぬ速さで、しかも手には先程士郎を威嚇した木刀を携えたまま、
ぶつぶつと幼なじみに対する文句を口から出るか出ないかの所で渦巻かせながら、
剣道場から図書室までの道を行く服部平次は、
もともとの知名度の高さも手伝って、かなりの異形ぶりを発揮していたが、
すれ違う人間で、今の彼にその事について尋ねられる勇気のある者は、
生徒はおろか、教師も含め、誰一人として存在しなかった。
「・・・何でやねん。」
たどり着いた図書室の入り口、
べったりと張り付けられている「立ち入り禁止」のマグネットシートに、
不快感を露わにして独りごちる。
図書室という名目上、周囲は資料室や準備室等、
放課後にはあまり使用されない場所ばかりなので、元々静かな空間である上に、
このマグネットシートの効果も相乗して、今は水を打った様な静けさである。
和葉は倒れた本棚からこぼれ落ちた本を、
新しい本棚へと入れ替える作業をすると言っていた。
それだけの作業の為に、人がいた所でさして差し支えがあるとも思えぬ図書室を、
どうして立ち入り禁止にする必要があるのか、
そこに一人の人間の意思をはっきりと感じ取り、
平次は憮然とした面持ちのまま、図書室へと足を踏み入れた。
特別やましい気持ちがある訳では無いのに、
何となく足音を忍ばせたのは、
室内からまったくと言って良い程物音がしなかったせいである。
すでにどこかへ・・・と、危惧を胸に図書室を奥へと進み、
服部平次は目の当たりにした光景に凍りついた。
一時間だ。いや、一時間にも満たない。
一時間目の社会科の授業、資料の不備に気がついた教師の松島が、
あの言動であるにも関わらず、同性の方が気楽だと考えたのか、
女子の日直である和葉を伴って社会科準備室に向かい、
その後、図書室でちょっとした事故が起きたからと一人で戻り、
和葉が二時間目が始まる直前に戻るまで、一時間にも満たない。
その間に、下級生の言葉を借りれば、
遠山和葉は二股も投げうつ程、一人の男に惚れ込まれ、
そして今は。
何故か図書室にて、心地よい眠りにつくその唇を、
恐らくはその男によって、奪われようとしていた。
凍りついたのは一瞬の事で、
次の瞬間には体内の血液が、一気に頭に上って行く様子がまざまざと感じられた。
しかし、寸での所で和葉と少年の唇の間に木刀の切っ先を滑り込ませ、
犯行を無事阻止した事と、突然の襲撃者に脅える少年の瞳を確認した時には、
服部平次の思考は、幾分冷静さを取り戻していた。
本来なら、犯人の、あえて犯人と表現するが、
その所業は許し難いものであり、未遂とはいえ、
二度とそんな真似が出来ぬよう、何らかの対処を持って然るべき所だが、
驚愕の瞳で自分を見上げ、声も無く床にぺたりと座り込む下級生の姿には、
その気勢も完全に削がれた。
二股、惚れ込む、後先考えない、手も早い、チャンス、決め時、
乗せられまいと思いつつも、葛城士朗の言葉から想像していたのは、
高校生、それも改方の学生とは思えない様な風体の、
よく街中で見かける様な、女に関して捌けた男であったのだが、
そこにいたのは、それなりに整った外見で、軽薄そうな印象を与えるものの、
脅えた目をした、至って普通の少年で、
寝ている女に口づけようとする、青少年さながらの不純さはあっても、
無理矢理どうこうすると言った様な精神は欠片も見あたらない。
獅子は一匹の兎を狩るのにも全力を尽くすと言うが、
兎にも満たない生物であった場合はどうなのだろうと、いささか不遜な事を考え、
平次は冷たい目で下級生を見下ろすのみにその行動をとどめた。
もっとも、自分が現れなかった場合の事を考えると、
体内にたたえた殺気は、なかなか静まりそうには無かったが。