新緑に恋を知る 7


        「あ、終わったら松島先生に声かけるように言われてたんだ。
        成果を見るんですかね、呼んで来ますけど、どうします?」
        「ほんならここで待っとるわ。おもろそうな本見つけたし。」
        帰ってしまうかと思いきや、最後まで付き合うつもりなのか、
        和葉はそんな事を言って、分厚い本を龍之介に見せつつ、本棚の前の床に座り込んだ。
        『世界推理小説名鑑』
        結構渋い趣味だなと思いつつ、図書室を後にする。
        そう言えば、先程の会話で、東京にいるという友達は、
        一時期話題になった、平成のホームズとか言われている、
        高校生探偵の知り合いだと言っていた。
        今はなりをひそめ、東京では眠りの何とかという探偵が有名だったと思うが。
        ・・・あれ? 確か大阪にも、何とかっていう高校生の探偵がいた様な・・・。
        ふとそんな事を思い出したが、平成のホームズの名前すら思い出せない程である、
        元より詳しく無いというか、あまり興味が無いというか、
        くだんの探偵も、さっぱりその名前が出てこなかった。
        推理小説が好きらしい和葉なら知っているかなと考え、
        やはりこの後はファーストフードにお誘いコースだな、などと、
        楽しき放課後のプランを立てながら、職員室を目指した。
        上手く誘える自信は、先刻よりはかなり半減してしまっていたが。


        『ご苦労、帰って良し。』などという、
        だったら来いとか言うなよと怒りだしたくなる様なメモを残し、
        松島は職員室から姿を消していた。
        もっともあれは、きちんと顔を見せられる生徒でいろとか、
        そんな警告であったのかもしれないけれど。
        いや、いくらなんでも・・・。
        しかし、図書室のある階は、他に放課後に利用する様な教室が無いせいか、
        図書室が立ち入り禁止となった今は、冗談の様な静けさである。
        そんな状況であるにも関わらず、札はそのままで良いなどと、
        かなり大胆な提案をしてしまったのではないだろうか。
        そんな事を考えて、不思議そうにしている隣席の担任に適当な挨拶をして、
        大慌てで図書室に戻り、
        「松島先生、どっか行っちゃったみたいです。」
        と、誰にも邪魔されたくなかっただけです、それ以上の事は考えていません、
        そんな気持ちを胸に秘めながら、殊の外明るくそう言ってドアをくぐったものの、返事は無く、
        龍之介は眉をひそめて奥へと進んだ。
        さっきまでは明るかった窓からの景色も、今は幾分暮れなずんでいる。
        本棚の配置のせいで照明が届きにくいのか、
        廊下側の奥にある図鑑の棚の辺りは薄暗く、
        一瞬、和葉はいないのかと考えたが、
        先程と同じ場所で、床に横座りし、
        世界推理小説名鑑を膝の上に開いたまま、遠山和葉は消えてはいなかったが、
        「・・・寝てるし・・・。」

        自分が職員室に行って、ここに戻って来るまで、ものの五分程度である。
        その間に、この綺麗な上級生は、
        すぅすぅと、健やかな寝息を立て、幸せそうに眠っていた。
        ・・・無防備っつーか、危機感が無いっつーか・・・こんな所で寝てたら危ねぇだろー。
        呆れつつも、その寝顔に見とれてしまって、
        危ないのは誰あろう、自分だという事に気づき、
        松島の警告の件なんかを思い出してみたりする。
        でもなー、これは無いだろー、可愛すぎだろー、かつ色っぽいなんてヤバイだろー。
        支離滅裂となっていく感情で、そう和葉に責任転嫁した時には、
        彼女との距離は更に縮まっていた。
        横座りして、本棚にもたれかかる和葉の前に座り込み、
        より近い場所で、和葉の寝顔をのぞき込んでみたりする。
        一目惚れさせて、そして更なる恋心を自覚させた、至上の存在。
        それでいて、どこか踏み込む事をためらわせる、
        そんな侵しがたい雰囲気を持つ、絶対の存在。
        けれど今は、この寝顔を見て、吐息を肌に感じた今は、
        そんな事はすべて頭から吹き飛んでいた。
        そのまま、吸い込まれる様に、
        軽く開かれた和葉の唇に、自分の唇が近づいて行く。

        最上の時間。


        ・・・が、流れるはずだった。
        だが、和葉の唇まで、あと数センチという距離を残して、
        音も無く、何かが二人の唇の間に割って入った。
        「!!」
        驚きのあまり声も無く、はじかれた様に身を起こす。
        体をそらして、まじまじとその障害物を見れば、
        そこにあるのは、一本の木刀。
        そして、その根本には。
        「・・・・・・。」
        あまりの事に声が出なかった。
        見上げれば、まったく気配を感じなかったのに、いつの間にかそこには、
        長身で、黒袴を着込んだ色黒の少年が、
        片手で持った木刀を、龍之介と和葉の間に構え下ろしたまま、
        冷たいまでの無表情をたたえて、自分を見下ろしていた。
        高校の図書室においては異端でしか無いその風貌と、
        冷たく静かではあるが、確かに伝わってくる、気迫と殺気に、
        冷や汗すら浮かんで来る。
        次の瞬間、木刀を持つ少年の腕が振り上げられた時には、
        16年の人生で初めて、
        「殺される。」
        そう感じた。

        「いたっ!!」
        しかし、振り下ろされた木刀の標的となり、
        そう声を上げたのは、龍之介では無く、和葉の方だった。
        もっともそれは、至極軽いものではあったのだが。
        突然の衝撃に目を覚まし、そのまま、何事かとしばし周囲を見渡していたが、
        襲撃者を認めると、和葉は途端に柳眉をつり上げ、
        「平次!! 突然何するんよ!!」
        と、頭を押さえながら、謎の剣士を「平次」と呼び、抗議の声を上げた。
        「・・・こんな所でアホ面して寝とるからやろが。何しとんねん。」
        「へっ? あ〜、つい寝てしもたわ・・・。
        あ、龍之介君、松島先生は?」
        仏頂面の平次にそう言われ、和葉は自分が寝てしまった事に、
        面目無さそうに照れ笑いを浮かべてそう言いながら、
        目の前で呆然とへたり込む龍之介に問いかけ、
        「何で座っとんの?」
        と、不思議そうにそう言って、立ち上がりながら、
        龍之介の腕を取って一緒に立たせた。
        同時に、自分が本を持ったままだという事に気づき、
        何故か平次を気にしながら、隠す様に慌てて本棚にしまい込む。
        龍之介はと言えば、正直、腰を抜かした様な状態ではあったのだが、
        和葉の手前、気力を振り絞って何とか立ち上がり、事の顛末を告げた。
        しかし、
        和葉が自分の名前を呼んだ瞬間と、腕を取った瞬間、
        二段階に分けて、新たな殺気が走ったのは、どう考えても気のせいでは、ない。
        「あの先生らしいな〜、せっかく綺麗に並べたのになぁ。」
        龍之介に、同病相哀れむと言う様に、笑ってみせ、
        「あれ、平次はどないしたん、部活やろ?」
        と、傍らに立つ平次に、今更ながらの疑問を投げかけた。
        「・・・俺の竹刀が無いんや。」
        「はぁ? そんなん・・・あ〜、でもあんたの事やから先週その辺に放っておいて、
        一年の誰かが片付けてくれたんとちゃう?
        ちょっ・・・せやから言うて、何で木刀なんて持っとんの?」
        平次の言葉に、一瞬訳が分からないと眉をしかめてみせたものの、
        次の瞬間には、思い当たる事柄を提示した和葉だが、
        ふと、平次が手にする木刀を目に止めて、驚いた声を上げる。
        「・・・別にええやろ。」
        「何言うとんの、そんなん持って校内ウロついてたら怖がられんで。
        なぁ? 龍之介君。」
        平次の木刀の用途がわからず、和葉は平次を軽く叱咤しながら、
        そんな風に龍之介に水を向けたが、龍之介は、
        「・・・そうですね。」
        という、実体験に基づいた肯定を、引きつった笑顔で返すのが精一杯だった。