新緑に恋を知る 3


        「せや、こいつがサボらんようによう見張っとけ。
        良かったなぁ転入生、居場所も孤独も一挙に解消やで。」
        「まったく、何言うてんですか・・・。」
        脳天気な松島と、呆れる和葉の声をしり目に、
        龍之介は心の中で謝罪していた。
        和葉にでも、無論、松島にでも、無い。
        ・・・相沢さん栗原さんごめんなさい。ボクは新しい恋に生きます。
        告白をされた訳でも無いのに、
        図々しくノミネートしていたクラスメート達に別れを告げ、
        目の前の女生徒を見やる。
        ええわぁ・・・。
        何故か関西弁になり、瞳に映る女生徒に、飽くなき視線を送る。
        少々気の強い印象を与えるものの、大きくて綺麗な瞳や、
        それを縁取る眉やまつ毛は、天然かつ自然でありながら、
        美里の、アイライナーやアイブロウ、マスカラに頼りまくったそれを軽く凌駕し、
        涼やかな色のリボンでポニーテールに結い上げた、長くて綺麗な黒髪と、
        すっと流れる優美なうなじのその線は、
        はるかの、柔らかなウェーブでその表情を縁取る、女の子らしい髪型も印象を薄くさせ、
        更に形の良い唇から流れる、よく通る綺麗な声を耳にし、
        彼女の為にデザインされた様なセーラー服に包まれた体の線を目にした時には、
        歴代の彼女達は、思い出と共に彼の脳裏から姿を消していた。

        「それより先生、」
        一瞬の間に、目の前の後輩がそんな考えを展開している事には気づかず、
        和葉は、勝手な役割を申し付ける教師に、ため息まじりに口を開いた。
        「ん?」
        「この子、保健室連れてってええですか?
        体中擦り傷だらけで見てられんわ。」
        「おーう、ゆっくりして来てええで、放課後の事もあるしな。
        さ、あたしもはよ授業に戻らんと。」
        本の角によって出来た、龍之介の体の擦り傷に眉をひそめて和葉がそう告げると、
        松島はそう言い残し、カウンターに置いた資料を手に取ると、
        さすがに一人では手に余るのか、ぎこちない動きで図書館を後にした。
        あ、一応一人称は「あたし」なんだ・・・。
        という、ささやかな驚きを残して。
        そう、無造作に束ねた髪、社会科教師なのに何故か薄汚れた白衣を着込み、
        強い種類のタバコの匂いを漂わせ、かつぞんざいなしゃべり方ではあるのだが、
        社会科教師、松島桐子はれっきとした女性である。
        それも、身なりと言動に気をつければ、かなり良い線行くのでは。
        などと思ってしまう程度に整ったルックスが、無性に腹立たしい。
        恐らくは、彼女の周りの男性教師達等も、同じ気持ちだろう。
        「まったく、調子ええんやから。」
        「・・・すいません、巻き込んじゃって。」
        「この子」と言う口振りに、和葉のクラス章を改めて確認して、
        あーやっぱ二年かーと、思いつつも、
        ま、年上もアリだよなぁと、気分を持ち直しつつ、殊勝に頭を下げてみせる。
        物事に対する無気力さと、異性に対する軟派さはあるものの、
        根は悪くない少年なので、
        無関係の人間を巻き込んでしまって申し訳ないという意識はあった。
        「・・・まぁええわ、あんたも災難やし、
        あの先生が言い出したらどのみち逃げられんから。
        それよりはよ保健室行こ。えーと・・・。」
        道理で、気の強そうな印象なのに、
        松島に対してあまり反論しなかったはずである。
        和葉の口振りから察するに、いつもあの調子なのだろう。
        それでも、松島に対しても、龍之介に対しても、
        さして怒っている様子も無く、和葉は諦め口調で龍之介を保健室へと促し、
        名前を尋ねる様に、龍之介の顔をのぞき込んだ。
        「あ、加藤です、加藤・・・龍之介。」
        正直、この名前はあまり口に出したくは無かったが、
        憶えて欲しくて、龍之介はフルネームを口にした。
        「へぇ、格好良い名前やね。」
        「そうですか? 苗字が結構良くある方だから、
        名前は印象強くって、親父がつけたんですけど・・・。」
        姉に至っては杏樹である。
        龍之介のごとく、純和風を考えて、父は安寿とつけたかったらしいが、
        山椒太夫の物語を考え、母が漢字を変えさせたらしく、
        美しい字面と、何やらインターナショナルな響きを持つその名前が、
        姉は割合気に入っている様である。
        自分に厨子王と来なかっただけマシなのかもしれないが、
        気に入ってない、そんな気持ちを隠そうともせず、龍之介は言葉を切った。
        図書館を出ながら、和葉はそんな龍之介の態度に気づいてか、
        「そんなら、お父さんの思惑通りやね、あたし忘れんわ、加藤君の名前。
        龍之介君って、呼んでもええ?」
        と、元気づける様に言って、そう申し出た。
        「・・・もちろんです。」
        そう答えた時には、名前を嫌がる気持ちは消え、
        父親には、感謝すらしていた。


        和葉の名前を聞き、一週間前に東京から転入して来た経緯を告げた時には、
        図書館から保健室にたどりついたが、校医は不在の様だった。
        どうもこの高校の教師は、管轄たる場所に不在な事が多い気がするのは気のせいだろうか。
        「パチンコかな。・・・座っといて。」
        そりゃマズイだろとツッコミを入れたくなる様な事をつぶやいて、
        和葉は龍之介を椅子に座らせると、
        勝手知ったるといった動作で、薬品棚から治療道具を選び出した。
        「でも、ほんま派手にぶつけたなぁ、痛いやろ。」
        龍之介の前に座ると、一番ひどいと思われる、
        腕の擦り傷に眉をひそめてみせ、消毒液を大量に吹き付けた。
        「イテテッ。」などという、お約束の声は上げなかったにも関わらず、
        「痛い言うたらもっと痛なるよー。」
        と、小さな弟にでも接する様に、和葉は治療を続けながらそんな言葉を口にする。
        一年しか違わないにも関わらず、まったくの子供扱いに憮然となるものの、
        治療をする、その手つきの鮮やかさには目を奪われた。
        「上手ですね、遠山先輩、保険委員ですか?」
        龍之介の問いに、何故か和葉は一瞬驚いて、
        「ちゃうよ。・・・ようケガする奴が周りにおるから慣れてしもてん。」
        と、苦笑いで返して来た。
        やはり小さい弟でもいるのかと考え、それを尋ねようとして、
        自分のケガを通して、別の何かを見る様な瞳に目を奪われる。
        治療の為、近づく顔の長いまつ毛、
        化粧など、まるで施していないにも関わらず、透き通るようなきめの細かい肌、
        柔らかな息のこぼれる、綺麗な天然色の唇。
        夏服からすらりと伸びた、白くて細い腕、
        さらりと、流れる様にすべるポニーテールの黒髪、
        改めて見惚れて、
        そんな人物と二人きりという現実に感謝してみたりする。
        窓の外の校庭からは体育教師と男子生徒のにぎやかな声、
        遠くからは、音楽室かららしい、「グリーンスリーヴス」
        静かにしろとか、どうせならラブソングかけろよとか、
        勝手極まりない事を思った直後に、治療は終わった。

        「ほんなら、放課後図書室でな。ちゃんと来なあかんで?」
        感謝の言葉を告げる龍之介に、
        形の良い唇の両脇をつり上げてそう言い渡すと、
        保健室の利用者リストに記帳し、和葉は保健室から姿を消した。
        何があっても!! 
        口にこそ出さなかったが、そう、熱い決意をかためた所で、
        一時間目の終了を告げるチャイムが、彼の頭上に響き渡った。