真夜中の魚 2


        ぱっしゃん。
        水から上がり、プールサイドを歩いて平次の元に行こうかとも考えたが、
        和葉は再び泳ぐ事を選ぶと、やはりゆっくりとしたクロールで平次を目指した。
        心にあった人物の、突然の登場によって火照ってしまった頬と、
        以前衝動買いしたものの、真っ白で、何の装飾も無い事が、
        体の線だけを強調してしまう様な気がして敬遠していた水着を、
        一人だからと着てしまった事が恥ずかしくて。
        ただでさえ一対一の場面で水着姿なんて、見せたいものじゃない。
        スタイルが良いと言ってくれた友人達の賛辞を思い出して、気力にしてみようかとも思ったが、
        十代の羞恥心は、そんな事では揺るがない。


        ぱしゃ・・・。
        「・・・何しとんねん。」
        ようやくたどり着いた和葉を真上から見下ろして、平次がそう声をかける。
        すぐに平次の元に行かなかった事に対してなのか、
        真夜中の遊泳に対しての意見なのか計りかねて、
        「平次こそ・・・。」
        と、湯船につかる様に、首から上だけを水中から出して平次を見上げ、
        和葉は疑問に疑問で返した。
        気にすまいと思いつつも、濡れて張り付いた髪を、
        手櫛で整えようとしてしまうのは女心だ。
        「家帰る途中で原田の兄ちゃんに会うてな。」
        「そう・・・。」
        その言葉で、平次がここに入れた事も合点が行く。
        政悟は平次とも顔見知りである。
        帰り道に平次と会った政悟が、何だかんだでもう遅いからと、
        平次に鍵を託して様子を見に来させたのだろう。

        だけど、でも。
        おかしい、いつもと違う。
        いつもの平次なら、ここまで来てくれはしても、
        真っ先に文句の二三は飛ばしそうなものである。
        ぼんやりと泳ぐ自分を、やはりぼんやりと待って、
        静かに言葉をかけるなんて、らしくない。
        「・・・何かあったん?」
        遠慮がちに尋ねると、平次は一瞬目を見開いたが、
        次の瞬間には、
        「それはこっちの台詞や!!
        お前の方こそこないな時間に何しとんねん!! 今冬やぞ!?」
        と、いつもの勢いで怒鳴り返して来た。
        「はは、せやね・・・。」
        いないから。
        本人に言えるくらいなら真夜中に泳ぎはしない。
        あなたが、いないから。
        けれど、その気持ちも、当の平次が目の前に現れた事で、
        光りを取り戻しつつある。
        我ながら、なんと現金でお手軽な女なのだろう。
        これだから、平次がいないだけであんなにも沈んでしまうのだと、
        本当はもっと、深く考えなければならない部分があるのかもしれないと思ったが、
        今は取りあえず、自分の事は良い。
        和葉は静かに笑うと、平次の質問をかわした。
        そして、いつもの調子を取り戻したかの様に見える幼なじみに、
        怒りを覚悟で同じ質問を返した。
        「・・・何かあったん?」


        再び発せられた和葉の質問に、
        平次は再び目を見開き、また怒鳴る様な素振りを見せたが、
        ぴたりと動きを止め、少し息を吸い込むと、
        次の瞬間には、少しだけ頭を下げて髪をかき上げるようにして表情を隠し、
        「・・・きつい話やったわ。」
        と、短く吐露した。
        「・・・うん。」
        その一言で、和葉はすべてを理解する。
        高校生探偵としての服部平次が背負う物が、
        時として、華々しい栄光ばかりで無い事は、わかっているつもりだ。
        たとえ事件を解決しても、暗くのしかかる業は、決して軽い物ではないだろう。

        それ以上、無理に聞く様な事はしないが、
        何かあったと、自分が知っているというだけでも、
        平次の心をほんの少しでも軽く出来るのではと考えるのは、自分の驕りだろうか。
        下手な慰めは言いたくないし、
        癒せるとも思ってはいない。
        でも今、平次は目の前にいて、
        平次の前には自分がいるから。
        政悟に言われたのであっても、
        平次が和葉の前に来る事を選んだ以上、
        ほんの少しでも、その感情を、受け止める事が出来れば良いと思った。