真夜中の魚 1


        あの人がいない。
        痛い程にそう感じてしまう感情を、
        水の中に沈める事が出来たなら。


        ぱしゃん。
        水音を響かせて、何度目かのターンを決め、
        和葉は平泳ぎをクロールへと変え、新たな25メートルを泳ぎだした。
        記録の為でも何でもない、
        ゆったりとした、見ようによっては憂鬱にも見える泳ぎ。
        入り口にある壁時計は11時を指している。
        午前、では無い。

        父の友人の息子で、スイミングスクールのインストラクターをしている原田政悟が、
        照明も何も無い、真夜中のプールで泳ぐのは気持ち良い、失恋のモヤモヤもふっとぶ、
        などと言っていたのはいつの頃だろう。
        その時は、ただでさえ落ち込んでるのに、
        暗闇で泳いだりしたら余計に落ち込むと茶化した物だが、
        何かあったら開けてやるという、彼の言葉に甘えている自分がここにいる。


        ぱしゃん。
        政悟さんのウソツキ、やっぱり落ち込むばかりやん。
        プールの真ん中で泳ぎを止め、呼吸を整えながらそんな事を考える。
        けれどオートロックにつき朝まで個人貸し切り、
        暖房も温水も和葉の為に入れたままで帰った相手に、
        それはないと考え、和葉は心の中で政悟に謝罪した。
        そもそも、政悟の泳ぎは和葉の様にのらりくらりとした物では無く、
        ヤケ食いならぬヤケ泳ぎで、体力の限り泳ぎ切り、
        ウサを晴らす、という方式なのだろう。
        けれどどうにも、真夜中のプールで力の限り泳ぐという行為は不釣り合いな気がして。


        ぱしゃん。
        再びゆっくりと泳ぎ出す。今度は背泳。
        天井に真っ直ぐ切れ目を入れる様に作られた、
        明かり取りの窓からは、満点の美しい星空が見えて、
        最初から背泳にしなかった事が悔やまれる。
        星はすばる、ひこぼし、ゆふづつ、よばひぼし、すこしをかし。
        古典で習った、そんな一文を思い出させる冬の星座。
        いくら暖房と温水完備とはいえ、
        こんな真冬の夜中に泳ぎたいなんて、酔狂を通り越しているが、
        政悟は特に何も聞かず、和葉の申し出を聞き入れてくれた。

        理由を聞かれなくて良かったと、心から思う。
        アホな幼なじみが事件に呼ばれて、
        音沙汰も無いまま三日目だからなんて、死んでも言えない。

        よくある事、
        なのにどうにも辛いのもいつもの事で、
        胸にうずまく不安や心配や淋しさは、月日を重ねるごとに増して行く気がする。
        一つの物事に向かう瞳を想い、誰よりも理解したいと考えながらも、
        矛盾した思いが去来する。
        当人の邪魔になる様な、半端な連絡が出来ないのはもちろんの事ながら、
        家族にも、友人にも、
        隠した恋心が露見してしまう事を考えると、相談どころか、
        どうしているのかなどという、噂話すらおちおち出来ない。
        けれど、
        たとえ自分の気持ちを知っているとはいえ、
        東京の、優しい女友達にはもっと話せない。
        彼女の境遇を思えば、自分の悩みなどただのワガママだ。


        ぱしゃん。
        星空をあきらめて、水中へと潜る。
        照明を落とした室内の水中は更に暗くて、余計に和葉の心を乱れさせる。
        今に始まった訳じゃない。
        何日も経っている訳じゃない。
        絶対に帰らない訳じゃない。
        けれど決して短くは無くて、誰にも言えなくて、
        慣れない痛みがもどかしい。
        そして、こんな風に悩んでいる自分が一番嫌で。

        あたしらしないわ。
        泳ぐ闇は、いつまでもどこまでも闇でしか無く、
        深い闇は、落ち込みを増加させる。
        けれど、それを抜け出さなければと思う気持ちが生まれる事もまた事実だった。
        笑いながら真夜中の遊泳を語った政悟もまた、
        この気持ちを知っていたのだろうか。


        ぱしゃ、ぱしゃん。
        壁へと行き当たり、水面に顔を出して何気なく振り返った和葉は、
        驚きのあまり、上がろうとしていたのか、再び泳ごうとしていたのか、
        思考のすべてが頭の中から消え去った。
        「平次・・・?」
        唇から漏れた名前の主は、和葉とは反対方向にある入り口の壁際に立ち、
        壁にもたれたままポケットに両手を入れ、遠目にも不機嫌そうな表情でこちらを見つめている。
        何故平次がこんな所にいるのか、和葉には見当がつかず、
        焦がれた故の幻か、はたまた生き霊かなどと、非現実的な事を考えてしまう。
        けれど、暗い室内にも関わらず、星灯りの中、平次の姿は鮮明で、
        まるで暗闇に射す光明の様にも思えた。