夏が咲く前に 8
「へ、平次!! どないしたん? こんな所で・・・。」
突然の幼なじみの登場は元より、
恐らくは百面相とも言える表情を浮かべていたであろう状況も手伝って、
和葉の声にはまざまざと動揺の色が表れてしまう。
そして、この店が陸男の行きつけの店だと言う事が美園を連想させ、
もしかすると平次は美園に連れられてここへ来たのかという考えが頭に浮かび、
和葉は陸男の降り立った階下の様子を気にかけると共に、
その胸がじんわりと、鈍い痛みに浸食されて行く様な気分を味わった。
「・・・事件の依頼人と打ち合わせしとっただけや。
そしたら上から聞き覚えのある、やかましい声が聞こえて来たからな。」
「やかましいって・・・。でもええの? その人は・・・。」
動揺する和葉の前に立ったまま、平次は依然として不機嫌な様子を崩す事はなかったが、
その口から出た「依頼人」の言葉に、和葉は幾分表情をなごませ、
いつもの軽口に対しては、
先程の自分の声は階下まで聞こえる程のものであったのだろうかと頬を赤くしつつも、
平次の依頼人が待っているのではないかと心配そうな視線を階段へと送った。
しかし平次は、
「もう帰った!!」
と、先程の和葉の声に負けず劣らずの大声を発し、
その場所からは到底届くはずもない階下への和葉の視線を、その体をもって遮断した。
「そう・・・・ ?」
平次の態度に目を見開くものの、
何か、気に障る様な依頼者や依頼内容だったのだろうかと考え、
「でも知らんかったわ、ここで話しとるなんて。」
と、平次が階下にいた事に改めて意見を発する。
駅の近郊に位置しつつも、和葉にとっては初めて知る場所であったし、
普段なら敷居が高いと感じる類の店である事から、
そんな場所で平次と出会った事に対する、純粋な驚きから出た言葉だったのだが、
まるで平次の予定を把握しているのが当然であるかの様な口振りになってしまったかと、
今日は殊更弱気になっている心の隅で考えた。
「・・・今日急に連絡が入ってな。
まぁ、お前は何や一日中うわの空やったし、そんなん別に興味もないやろうけどな。」
「・・・・・・。」
言葉が、何となく刺々しく響くのは気のせいだろうか。
確かに自分は今日一日、うわの空と言うよりも、
平次に接する機会をなるべく避けていたのだが、
自分から行かなければそれまでだと虚しくさせられる様な関係の上で、
平次がその事に、解釈は違うにしろ、気づいているとは思いもしなかった。
けれど、興味がないだなんて、どんな表情を浮かべて良いかわからない。
朝からずっと、平次の事ばかりを考えていたと言ったら、どんな顔をするのだろう。
「・・・朝かて、人の事無視して行きよるし。」
「気づいとったん!?」
どう言葉を返して良いかわからず、黙ったままの和葉だったが、
次いで平次がぼそりと発した台詞には、思わず声を上げてしまった。
「当たり前やろ、あんな誰も通らん様な道で何で見逃すねんアホ。
人を何やと思うとんのや。」
確かに、いくら通り過ぎた後ろ姿とはいえ、
それは西の名探偵を冠する人間を馬鹿にした意見だと和葉は考えたが、
あの瞬間は、平次の目の中にはあの少女、
美園の姿しか映っていないかの様な孤独感に捕らわれたのだ。
黙って立ち去る以外に、自分に何が出来ただろう。
「ごめん・・・。でもあの、邪魔・・・やと思って。」
和葉の態度を無視と表現した平次に詫びつつも、
あの状況ならそうせざるを得なかったと、
邪魔という言葉で色恋の示唆をしつつ、どんどん小さくなっていく声でようやく告げる。
途端、平次は和葉の言葉に、何故か眉間のシワを深めつつ、
「別に、前にちょっと助けたった礼言われただけで、そんなんやないわ。」
と、吐き捨てる様に言って、真っ直ぐに和葉を見据えた。
「そう・・・・・・。」
確かに、陸男は平次が痴漢から美園を救ったと言っていたから、その話は繋がる。
ならば、告白はなかったのだろうかと、和葉は平次を見上げたが、
自分を真っ直ぐに見下ろす平次の目は、
何故だか怒りをたたえてはいたが、軽微の曇りも無く、言葉の真実を表しているかの様に思える。
もっとも、嘘をつく理由も必要も無いのだが。
けれど、美園が、元よりそのつもりはなかったのかもしれないが、
平次に対し、礼を言うだけにとどめたのは、
陸男の胸中を察すれば何よりの事だった。
今頃、二人はお互いに思いの丈をぶつけあっているのだろうか。
その事を考え、同時に自分の心配が杞憂に過ぎなかった事にもこっそりと安堵し、
和葉の表情は自然な笑みを刻んだが、
平次は相変わらずの仏頂面を崩す事なくそんな和葉を見下ろし、
「で、お前はこんな所で何しとんねん。」
と、苛立った声で切り込む様に問いかけた。
「あたしは・・・。」
平次がここにいる理由や、
美園についての自分の心配事が解消された今、
それらの事に比べれば、自分がここにいる理由は何でもない事の様に思えたが、
よくよく考えれば複雑な来店理由をすんなりと口に出来るはずもなく、
和葉は言葉を切って言いよどんだ。
平次に恨みを持っていると思った人間の誘いに乗ったなどとは言えるはずはないし、
平次の元を訪れた少女の恋人が、自分を平次の恋人と勘違いしてやって来たなどという事も、
自分と平次がどう思われていたのかという部分は特に話し難い。
何より、平次にそんな事を知られるのは、
陸男にとっては不名誉な事だと思うから、秘密にしておいてあげたかった。
お互い、似た様な気持ちに支配された、
戦友の様な関係に免じてと言ったら語弊があるだろうか。
「・・・何やねん。」
和葉が考えを巡らせる中、平次が追いつめる様に言葉を発する。
和葉はそんな平次の態度に頭の片隅で父親の職業を連想しつつ、
目まぐるしく思考を回転させた。
『一人でお茶を飲みに来た。』
思いつくままに言いかけて、
目の前の陸男の残していったグラスと、
自分の声を聞いたという平次が、その相手である陸男を目にした可能性を考え、
ついでにどう考えても普段一人では来ない類の店である事からも、その台詞を消去する。
『あの人は友達。』
平次が陸男を確認した事を考えて、そんな台詞が浮かんだが、
桐間西高に関わらず、他校の男子生徒には、平次も知る所である、
中学校の同級生や剣道部の人間くらいしか知り合いのいない事実が脳裏をかすめ、
売れない脚本家の様な気持ちで二つ目の台詞を消去する。
自分が、こんなに嘘が下手だとは思いもしなかった。
同時に、平次に把握出来る程度の行動範囲や交友関係しかない、世界の狭さが虚しくなる。
平次には、探偵という生業も手伝って、全国各地に足をのばしているばかりか、
自分の知らない知り合いが、時に不安になる程いるというのに。
二重の意味で目の前の存在が探偵である事をひっそりと恨み、
慌てて言い訳を考えている自分に疑問を感じる。
別に、どうだって良い事のはずなのだ、平次にとっては。
それが嘘でも、ばれたとしても。
最初に危惧した事だけがわからなければ良いと考え、
いっそ、告白されていたとでも言ってやろうかと、
気づかいから生じたのであろう先程の、陸男の言動からそんな事を思い立ったが、
すぐに馬鹿な考えだと打ち消した。
そうして、次の瞬間には、
そんな葛藤を経て、どこか軽くなった心はすらすらと、
こんな言葉を口に出させていた。
「友達の彼氏の、相談に乗ってたんよ。」
「・・・ほーお。」
澄んだ和葉の声に対し、平次はどこかよどんだ声を返す。
疑いを感じたが、ここでひるんでは駄目だ。
思えば、日本屈指の探偵を相手に大胆な行為だとは思うが、
美園が自分の友達で無い事をのぞけば、あながち嘘とは言い切れない。
和葉は手元のアイスティを一口、喉を潤しつつ言葉を続けた。
「友達が、他の人好きになったかもしれんって。」
そう、これは嘘ではない。
言って、目の前の探偵の返答を待つ。
ひるまない、けれど挑みすぎない、いつもの光りを瞳の中にたたえながら。
さあ、この相手はどう出るのだろう。
「・・・はん、しまりのない奴やな。」
平次の発した言葉は、随分相手を小馬鹿にしたものではあったが、
それでも和葉の言葉を真実ととらえての返答である事に、
和葉はこっそりと安堵の息をもらしつつも、
「けど、好きならしゃあないんとちゃうん・・・。」
平次絡みである事はわからないまでも、
陸男の行動の一端を平次に知らせる様な結果になってしまった事から、
半ば弁護する様な形でそんな言葉を口にし、
そう言えば、陸男も似た様な事を言っていたと、何となく窓の外に視線を移した。
「・・・そんで、どうなったんや?」
流されると思った言葉には、すぐさま苛立った様な言葉が返され、
和葉は再び平次に視線を戻し、目を見開いた。
こんな色恋沙汰の顛末に、興味があるとも思えないのだが。
「さあ・・・色々話す言うて帰って行ったから、元の鞘におさまってとるんやないかな。
・・・友達が好きになったかもしれんいう人も、女心のわからん、鈍感さんみたいやし。」
少しの意地悪を含めつつ、そんな言葉を返すと、
平次はわかった様なわからない様な顔をして頷いて、
「そんなら、もう終わったんやな。」
と、確認する様に一言。
その念押しに何故だか力強いものを感じて和葉は平次の顔をまじまじと見たが、
そんな和葉の視線に居心地の悪さを感じてか、
平次は急に小馬鹿にした様な顔へと表情を変化させ、
「せやけど何やなぁ、いくら女の友達や言うても、お前にそんな相談するなんてなぁ。」
と、世間的には姉御肌で通っているとはいえ、
こと恋愛に関しては奥手の部類に属する和葉の経験の浅さを示唆してか、
そんな事を言って鼻で笑った。
失礼な言い草ではあったし、普段なら倍の声と言葉をもって返す所だが、
陸男の話に答えながら、自分でもそう感じた事ではあったし、
平次は違うのだろうかと考えると、またどこか覇気を削がれ、
「そうやね。」
と、困ったような笑顔で返すのが和葉には精一杯だった。
美園の事が杞憂にすぎなかったとはいえ、
明け方からのどこか鬱屈とした気持ちはいまだ自分を取り巻いているらしい。