夏が咲く前に 7
「ア・・・アホッ!!」
階段上から聞こえて来る、元気な声に口の端をつり上げ、
階段を降りきる。
さあ、美園に会いに行こう。
彼女の居場所の見当がつく、長い付き合いがありがたかった。
恐らく彼女は不機嫌だろうが、そんな事は構わない。
今回の浮気は許すから、自分の浮気も許してくれよと、至極勝手な事を考え、
今回、改方学園の一組の男女に惑わされた自分達に対し、皮肉な笑みを漏らす。
そして、他の女からのアドバイスで申し訳ないが、
今まで表に出さなかった、美園に対する、すべての思いを語ってやる。
ギターの話をする時と、どっちが良い顔してると美園は思うだろう。
そんな事を考え、薄い笑顔でレジに向かおうとする彼の傍ら、
階段脇の席に座っていた一人の制服の少年が、ふいにガタンと音を立てて立ち上がり、
愉快そうな陸男を不愉快そうに一瞬、視界の端にとらえると、
飲みかけのグラスを片手に、彼と入れ違う様に強い足取りで階段を上って行った。
「何や・・・?」
身に覚えの無い敵意と、
普段、この店ではあまり見かけない、自分以外の高校生の存在をいぶかしむ。
長身で、制服の上からでもそれとわかる、鍛え抜かれた体躯、
不機嫌そうではあったが整った精悍な顔立ち、
浅黒い肌・・・。
「あ。」
ちらりと確認した、少年の容姿を反すうし、はたと思い当たる。
それらのキーワードは、自分の高校でも有名な、
そしてここ数日、自分が敵意を燃やしていた人物への道を指し示している。
更には二階の佳人の存在に、
その考えは確固たる確信へと変わった。
惚れない男はどうかしている。
やはり自分の考えは間違ってはいなかった。
「めちゃめちゃ気にしとるやん・・・。」
先程の和葉の言葉を思い出し、そんな事を独りごちる。
美園に対する自分同様、あの男もまた、言葉や態度に出さない方なのだろう。
だからこその、和葉の苦労が伺えたが、
実の所、誰よりも苦労しているのは当の本人である事は、陸男にはわかる。
ここ数日は憎くて仕方なかった相手だし、
あれだけの女を側に置く幸福を独り占めに出来る男には、
やはり負の感情しか浮かんで来なかったが、
ここまでの彼の苦悩と葛藤をたたえて、
ついでにその事に少しばかり気を良くして、
陸男は頭に浮かんだ一つの単語を口にした。
「Good luck.」
それは期せずして、デニスの心を射止めた、
かの女優の、あの映画での最後の台詞であったのだが、
やはり映画自体は三流だ。何とありきたりな台詞だろう。
「ださ・・・。」
言った自分に心底後悔しつつ、陸男は今度こそレジへと向かった。
一方、和葉はと言えば、陸男に対して大声を上げた後、
再び席につき、もうすっかり氷が溶けて薄くなったアイスティで、
喉と、熱くなった体を冷やしてはいたのだが、
陸男が残したいくつかの言葉を思い出すにつけ、
否が応にも頬の温度が上がって来てしまう。
じょ、冗談やよね、何や唐突やったし・・・。
あたしがもてへん言うたから、気ぃ使ってくれたんかな・・・。
胸中で、まったく別の解釈を繰り広げつつ、
両手でぱしぱしと赤くなった頬を叩くという、
自分でも不可解な行動を取りながら、混乱した思考を整理し、
ようやく合点が行き、一人で力無く笑いながら頷いた時だった。
「・・・何しとんねん。」
「うわっ!!」
デニス・レディングの曲に次いで流れ出したのは、
低く流れる上品なジャズだったが、
その音に混ざってしまう様な低音、
けれど明らかに調べでは無い、不機嫌な声がぼそりと頭上に響き、
和葉は驚いて目の前のアイスティのグラスを倒しそうになった。
それは、決して聞き間違える事は無い、幼なじみの声。
その声に慌てて顔を上げれば、
声以上に不機嫌な顔をして、むっつりと唇を引き結んだ平次が、
学生服のまま、右手には鞄、左手にはアイスコーヒーの入ったグラスを持ち、
いつの間にかテーブルの向かい側に立って、和葉を見下ろしていた。