夏が咲く前に 5
店内に響きわたっていた、先程までの謎めいた音楽のアルバムが終了した為、
続けて流された曲に対し、二人はほぼ同時に声を上げた。
「何や、あんたもこの曲知っとんのか。」
自分同様に曲に反応した和葉が余程意外だったのか、陸男が驚いた様に尋ねる。
確かに、昨日までは、正確には明け方までは、和葉もまったく知らない曲だった。
そう、これはあの、どこかすっきりしない気持ちを、和葉の心に残した、
あの深夜映画のテーマソングだ。
映画の内容はハッピーエンドであったのに、
どことなく雨を思わせる、悲しげなギターの独奏曲。
自分の気持ちに拍車をかける様な、この低い音程はしっかりと記憶にあった。
「うん・・・昨日やっとった深夜映画のテーマソングやろ?」
「あーっ、昨日か!! チェック入れてたのに観逃した!!
あー、長門さん、そんでこの曲かけたんかな。」
「そんなにええ映画やった?」
突然熱を帯びた様に、そんな事を言い出す陸男に驚いて、和葉は尋ねた。
映画自体は、よくある話というか、メロドラマ仕立てというか、
少なくとも高校生の男子がそんなに見逃した事を悔やむ様な映画には思えなかったのだが。
「ちゃうわ、映画は三流や。けどこのテーマソングがな、
俺にとってのギターの神様、デニス・レディングのデビュー曲でな。」
「へぇ・・・ギターやるん? バンド?」
デニス・レディングの名前は、そういった方面にうとい和葉にも聞き覚えがあった。
確か何年か前、何とかという、音楽でもかなり権威のある賞を受賞したギタリストで、
もう随分高齢ではあったが、現在第一線で活躍しているミュージシャンにも、
彼の影響を受けた者は多いと聞く。
「・・・いや、デニスと同じに、一人でアコギでやるだけや。歌も入れん。
ここの店長の長門さんがやっとるライヴハウスでたまに・・・。
まぁ、アコギのソロはよっぽど腕が無いと聴かせられんから、
俺みたいなんはお笑い草もええ所なんやけど。」
「・・・まだ、高二やん。ライヴやなんて、そんだけでもすごい思うわ。」
少し自嘲気味になった陸男に、和葉はそんな風に言って笑いかけた。
陸男の外見からか、大抵の人間はギターをやると言うとバンドを連想し、
アコースティックギターのソロと聞くと「意外。」や「暗い。」などと、
お前ら他に単語知らんのかボケと言いたくなる様な一言で返答するものなのだが、
彼のこの話を聞いて、好意的な、一言以上の単語を返したのは、
女では和葉が二人目だった。
あいつは。
高一の頃、他の仲間と共に何となくつるんでいたクラスメートは、
学年でも目立つタイプの美少女で、
話しやすくはあったが、自分のそんな話に、
やはり「意外。」や「暗い。」の一言で返すだろうと、
音楽番組の話から、ついギターについて熱く語ってしまった後で、
イメージから勝手に予想をつけ、皮肉な考えを脳裏に巡らせたものだったが、
意外にもその相手は目を輝かせて、
「すごい。」や「聴きたい。」といった単語を連発し、
そして、いつもは冷めた雰囲気なのに、
ギターの話をする時の陸男はすごく楽しそうでとても良い顔をしていると言い、
次の日にはデニス・レディングのCDを買ってみたと言って、
今までの何げない会話の時に浮かべていた笑顔とは一味違う、
照れた様な、はにかん様な表情で笑った。
たぶん、あの瞬間からだ、
秋山美園に恋をしたのは。
「でも、あたし不思議やったんやけど、」
あの頃もやはり、夏が迫り来る季節。
白いシャツ、プールの後の倦怠感、入り混じる制汗剤の香り、
汗で額に張り付く前髪の感触、テスト範囲を告げる教師の声、
あらゆる感覚と共に蘇る、一年前の記憶から、
つぶやく様にして耳に入った声に、
ゆっくりと現在へと引き戻され、陸男は和葉に瞳を合わせた。
「この曲、あの映画と合っとらん様な気がせぇへん?
ハッピーエンドやのに悲しげっちゅうか・・・。」
「ああ。」
批判するつもりでは無いが、純然たる疑問を和葉は遠慮がちに口にした。
陸男は別段気を悪くする風も無く、和葉のそれに軽く笑って答えた。
あの映画を観た者ならば、それは当然の疑問だろう。
昨晩は見逃したものの、あの映画はもう、何度となく観ている。
映画が好きだからでは無く、映画と曲に対するデニスの意思を感じ取る為に。
「この曲はな、映画全体のテーマ曲やのうて、一人の女のテーマ曲なんや。」
「女って、ヒロインの看護婦?」
「ちゃう、その女のライバルの・・・おったやろ? 病院長の娘や。」
「うん・・・でも何で?」
病院長の娘はもちろん記憶にある。
青年が主人公に、彼女とはただの幼なじみだと説明し、
和葉はその存在に、自分を重ね合わせ、悲しい気持ちになったのだから。
・・・えらい綺麗な女優さんやったから、図々しい話やけど・・・。
しかし、いくら美しい女優とはいえ、
主人公でもない彼女をテーマにした曲がメインに流れるなんて、
どう考えてもおかしな話だ。
怪訝な表情を浮かべる和葉に、陸男は続けた。
「デニスはテーマ曲の依頼が来て、映画を観た時、
あの三流映画の中で、何よりも光っているのは、
ストーリーでも主演女優でも無い、あの病院長の娘役の女優やと感じたんや。
あんたかて観たやろ?
あの女は別に悪役でも何でも無い、子供の頃から好きやった幼なじみを、
運命的な出会い方したっちゅうだけで、他の女にかっさわられた不憫な女や。
まぁ、何度か邪魔もしよるけど、結局、男にとって、何が幸せか考え、
自分と結婚しない事で腹を立てとる親父を説得してまで他の病院への紹介状を書かせて、
ラストシーン、駅から旅立つ二人を、毅然とした態度で影ながら見送る・・・。
話にしたらただの敵役やけどな、その役柄に個性をそそぎ込み、
憎むにしては情に脆く、哀れむにしては誇り高い、
その微妙な演技を完璧に演じてみせたあの女優のに惚れ込んで、
デニスはあの曲を作ったっちゅう訳や。」
「へぇ・・・。」
冷めた雰囲気はどこへやら、
水を得た魚の様に、滔々と解説を繰り広げる陸男に対し、
和葉は感嘆の声をもらした。
そんな背景が、あの映画にあるなんて気づきもしなかった。
けれど確かに、悲しくなってしまった事柄を忘れ、映画全体を思い出してみると、
主演女優よりもその女優の演技の方が印象に深い。
あれが俗に言う、「主役を食う」という事なのだろう。
店内を流れる、雨を思わせる悲しげな音色。
しかし今ならば、悲しげなそのメロディの中に、強さの様な物も感じ取れる。
それはまさに、破れた恋に花を手向ける、誇り高き女の曲だった。
「まぁ、イメージと違うの丸わかりやし、
勝手な事したっちゅー事で、クライアントの怒りを買って、
デニス自体はそれから結構ほされるんやけど、
あの女優は数年後にはアカデミー賞やし、
デニスも今やギターやっとる奴で知らん奴はおらんくらいの存在や。
結局、間違ってたのはあの映画だけっちゅう事やな。」
「アカデミー賞・・・ああ!!」
陸男の言葉に、和葉は思い当たる。
随分昔の映画だからわからなかったが、
確かにあの女優はアメリカでも有名なアカデミー女優だ。
「何や、気づかんかったんか。あの頃は眼鏡かけとらんかったけど、娘にそっくりやろ。」
次いでデビューした彼女の娘の事を示唆し、陸男が笑う。
「言われてみればそうやね。」
「せやから・・・っと、悪いな、何や一人で語り入ってしもて。」
再び話し出そうとして、陸男はばつが悪そうに言葉を止めた。美園が評した通り、
ギターやデニスの事になると自分は普段とは人が変わってしまう様だ。
「何で? 別にかまへんよ、楽しかったし。」
マニア丸出しで語りまくってしまったにも関わらず、
和葉はきょとんとして素直な感想を述べた。
「・・・やっぱ自分変わっとるわ、普通女は特に興味も無かったら退屈やろ、こんな話。」
「せやろか、知らん話やから面白い言うんもあるし、
それに、自分の好きな事を話してる人見てるの、好きやわ、あたし。」
「・・・・・・。」
和葉の口から出る、「好き」の言葉に反応してしまう自分から、
陸男は何とか意識を遠ざけた。
恐らくその言葉の根源は、自分では無い、他の人間にある。
必死にそう、考える事で。
「この曲、何てタイトルなん?」
曲はもう、終りに近づいている。
何故か黙り込む陸男に、和葉は尋ねた。
映画の内容が自分に与えた、鬱屈とした感情に拍車をかける曲ではあったが、
陸男の話を聞いた今では、少なからずの感銘を受け、何だか興味がわいて来ていた。
「・・・『どうぞこのまま』。」
普段なら、英語タイトルを口にする所だが、
こちらの方が今の気分に近いと考えながら、
陸男は日本語タイトルを口にした。