夏が咲く前に 4


        「それで?」
        カフェの二階は居住区が入っているのか、
        上った階段の向かいに一階よりも手狭な横長の空間が広がるのみで、
        三卓置かれたテーブルに他に客は無く、
        一階と同じ音楽が響き渡ってはいたが、
        ベージュより一段明るい生成りで統一された内装と、
        階段の向かいの外側の壁が一面、窓になっているせいか一階よりは随分明るい雰囲気で、
        窓から差し込む光りと、天井で回るファンの影が、
        室内に絶妙なコントラストを行き渡らせている。
        その他の壁には新進気鋭のアーティストの作品を思わせる、
        Tシャツやポストカードの類が間隔を置いて張られており、
        幾分、けだるい雰囲気に包まれているものの、
        バーを思わせる階下に比べて、こちらは完全なカフェと言って良かった。
        「あたしに何の用? 平次絡みなんやろ?」
        話を促し、自分の分のアイスティに口をつけて、
        汗をかいたグラスの中身をストローでからりと回して、相手の返答を待ったが、
        何故か呆けた様に自分を見つめ、話し出す様子も無い陸男に、
        和葉は切り込む様に言葉を次いだ。
        陸男はぼんやりしていた事と、和葉の方から平次の名前を出された事に、
        二重に目を見開いたが、「西の名探偵」の単語を出したのは自分だと思い出し、
        和葉に見透かされた事で、少しずつ狂ってしまった当初の予定、
        もっとも、予定などというものが存在したのか、実を言えば彼自身にも謎ではあったが、
        それをどう切り出すべきか、しばし悩み、
        次の瞬間には腹を決め、元よりこの相手に、遠回しな言い方は似合わないと、
        何故か和葉に合わせて思考を巡らせ、
        ついでに、負の感情を抱く人物が窮地に近づく事なども計算に入れつつ、
        和葉の瞳を真っ直ぐに見返し、すべての事柄を総括した意見を口にした。
        「俺の女が、服部平次に惚れた。」


        「・・・・・・。」
        陸男の言葉に、和葉はどう反応して良いのか、咄嗟には判断できなかった。
        不敵な態度を持って、自分の前に現れた少年、
        その様子から、きっと事件絡みで平次に何かしらの遺恨を持つ人間が、
        幼なじみという身近な存在であり、しかも女である和葉に目星をつけ、
        何事かの接触を計ろうとしてやって来たのだろうと考えていた。
        しかし、箱を開いてみれば、そこにあったのは高校生らしい、恋愛絡みの行動で。
        無駄にミステリアスすぎやわ、あんた・・・。
        陸男には、冷淡さや酷薄さを感じさせるその顔立ち故か、
        どこか不遜な、自信の様な物が感じられ、
        他校の校門前で和葉に声をかけて来た態度を思い出しても、
        よもや恋愛絡みで動いていたとは思えない。
        その感情を低く見る気は無いが、犯罪を背景に置いていた自分としては、
        いささか脱力を味わわされた気分ではある。
        しかし、女が平次に惚れたという話には、脱力する事も出来ず、
        実際、どう反応して良いか判断に迷ったまま、和葉は陸男の言葉を待った。
        「・・・この前、満員電車で痴漢にあったんを助けられたとかでな。
        服部平次言うたら、俺も顔までは知らんけど、
        探偵やら剣道やらで、この辺の高校じゃ知らん奴はおらんやろ?
        あの女、そんな奴に助けられたんがよっぽど嬉しかったらしゅうてな、
        それからは毎日毎日、ハットリクンハットリクンや。」
        明らかに面白く無さそうに平次の手柄を話す陸男の言葉に、和葉も瞳を落とした。
        痴漢にあった女の子を助けるなんて、誉めるべき行為ではあるが、
        あるのだが、
        ・・・また、無意識に女の子惚れさして・・・。
        勝手な言い分と、わかってはいても、
        陸男の言う通り、その功績や実力から、関西ではかなりの知名度で、
        黙っていても女の子が寄って来る想い人が、
        更なる行動を持って、女の子を虜にしてしまう事を、喜べるはずなんて無い。
        和葉はひっそりと唇の内側を噛みしめた。
        そんな和葉の様子に気づく事も無く、
        「しかも、今度は『告白する。』やて。訳わからんわ。」
        と、吐き捨てる様に陸男が言い放つ。
        「・・・あんたさっき、『俺の女』や言うとらんかった?」
        陸男の言葉に矛盾点を感じ、和葉はそう尋ねたが、
        陸男は冷淡なな表情のまま、「さぁな。」と返した。
        「・・・その態度、あんた、彼女の前でもそんなんなんやろ。」
        「・・・・・・。」
        黙り込む陸男の態度に、
        和葉には、彼と彼女の間で繰り広げられたであろう、事の顛末が手に取るようにわかった。
        つまりは、どんなに平次を誉めても、表面上は冷淡で、無関心を思わせる、
        もっとも、これは陸男の顔立ちのせいではあったが、
        とにかくそんな陸男に、彼女が苛立って、平次への告白を口にしたのだろう。
        平次に憧れているのは事実だとは思うが、
        その気持ちが真摯な物ならば、わざわざ彼氏の前で気持ちを口にしたりはしないはずだ。
        二人の関係と、後に引けなくなった見知らぬ少女に、少し呆れつつも同情する。
        そこまで考えて、和葉は今朝方の光景を思い出した。
        通学路で平次を待っていた、桐間西高の少女。
        「・・・なぁ、あんたの彼女って、同じ高校?」
        「そやけど・・・知っとんのか?」
        陸男の言葉に、和葉は一瞬、どう答えて良いのか迷ったが、
        陸男は瞬時に和葉の表情を読み取り、
        「あの女・・・今日は一日大人しゅうしとると思ったら、
        もう服部ん所に行ったっちゅう事か・・・。」
        と、苛立ちもあらわに、テーブルを爪ではじいた。
        陸男の様子を見て、やはりあの子かと和葉は思ったが、
        あれがやはり告白であった事と、それに対する平次の返答を思うと、その瞳は曇った。
        けれど、
        「・・・あんたが、そないに悔しいに思うて、
        こんな風に行動する程なんやったら、
        そういう事、ちゃんと彼女に言うたげんと。」
        自分の感情は取りあえず保留にし、
        和葉は焦燥する目の前の少年に、思いの外静かにそう告げた。
        「あんたかて、何で彼女が突然そんな事言いだしたんかわからんのやろ?
        そしたら、向こうかてあんたの気持ちなんてわからんのと違う?
        言わんでもわかる関係やったらそれが何よりかもしれんけど、
        まだ、こんな歳なんやし、何より相手は女の子なんやし、
        言葉、欲しい時かて、あるやろ・・・。」
        黙り込む陸男に、岡目八目で、最初は思いのままを口にした和葉だったが、
        段々と言葉に覇気が無くなって来たのは、
        他人に偉そうな事を言える程、自分に経験が無い事に気づいたせいか、
        平次に告白した少女の彼を応援するという行為に、裏は無いのか考えてしまったのか、
        はたまた自分の言葉と自分の内情が重なってしまったのか、
        自分でもよくわからなかった。
        対する陸男はと言えば、
        自分はどう考えても迷惑な来訪者であるはずなのに、
        事情がわかったせいか、張りつめていた空気を和らげ、
        親身になって提言してくれる和葉の言葉を、神妙な面持ちをもって聞いていたが、
        突然覇気が失せた和葉の様子に、
        「・・・あんたも、服部と上手く行ってへんのか?」
        ふいにそんな事を言い出した。
        「なっ・・・あたしと平次はそんなんとちゃうよ!!」
        ふいをつかれた事で必要以上に焦り、
        和葉は級友にからかわれた時の様な大声を出してしまったが、
        態度が和らいだとはいえ、出会って以来、
        和葉の冷静かつ毅然とした面にしか触れていない陸男にとっては驚きである。
        と同時に、恋愛方面に関して、何とわかりやすい女なのだろうと、
        数分前、和葉が服部平次を挟んだ自分と彼女のやり取りに、
        似たような評価を下したとは夢にも思わず、
        陸男はまだうっすらと頬を赤くした和葉を見つめながら、そんな事を考えた。
        「美園が・・・女の名前やけど、服部に告白する言うた時、
        周りの女が皆して止めてたんやで?
        『改方の服部にはえらい美人の幼なじみの彼女がおるからやめとき。』言うてな。」
        数日前、何故か自分の近くで繰り広げられ、
        無関心を装いつつも、しっかりと聞き耳を立てていた、
        美園と友人達の会話を思い出し、その事実を告げると、
        「・・・・・・でたらめすぎて、どこ訂正したらええのかわからんわ。」
        もう焦る事は無かったが、どこか寂しげに苦笑いして、和葉はそう答えた。
        その様子からも、彼女の服部平次への想いは明らかだった。
        付き合っていない事は確かな様だが、
        この女は、服部平次に惚れている。
        ならば服部平次はどうなのか。
        一瞬考えて、それは愚問だと陸男は悟る。
        この女と長い間一緒にいて、惚れない男はどうかしている。
        「・・・・・・。」

        惚れない男はどうかしている。

        「そんならあんたは、あたしが平次と付き合ってると思うて会いに来たん?」
        「あっ? ああ・・・。」
        一瞬、何かを考えた。
        しかし次の瞬間、陸男は和葉の声に現実に引き戻され、慌てて返答を返した。
        「会って、どないするつもりやったん?」
        「・・・わからんわ、自分の男、しっかり見張っとけて、
        自分の事棚に上げて言うつもりやったかもしれんし、
        服部の女、引っかけられたら鼻あかせる思うたかもしれんし、」
        そこで言葉を切り、最初に自分について来ると言った時の和葉を思い出す。
        あの時、随分簡単に行くものだと、笑みがこぼれたものだが、
        遠山和葉という人間の一端を知った今となっては、顔から火が出る思いである。
        和葉もまた、あの時の陸男の心境に思いを巡らせているだろうと考え、
        「まぁ、とにかく、美園に行く訳でも、服部に行く訳でも無い、
        何や腐った事考えてたんやろうな。」
        と、いささか卑屈に続けて、
        「仲間に服部の女の事聞いたら、そいつらも、
        遠山和葉言う、ポニーテールのえらい目立つ美人や言うとったから、
        まぁ、一度おがんどきたいっちゅう好奇心もあったんやけどな。」
        少し冗談めかして、改方で和葉を見つけるに至った経緯を話すと、
        和葉はびっくりした様に目を見開き、
        「・・・そんな嘘、もうええわ。」
        と、少しふくれてつぶやいた。
        「・・・・・・あ?」
        予想外の反応に、陸男は口をぱかりと開いて和葉に問い返す。
        「・・・・・・せやから、さっきから、その、美人とか、
        そんなん言うて人の事からかうの、よして。」
        うつむきがちになって、居心地が悪そうにぼそぼそとそう言う和葉は、
        確かに美人という形容は似合わなかった。
        今は、可愛い。
        様々な魅力を持つ女だと思うと同時に、
        どうやら本人がその事に気づいていないらしい事実に驚く。
        「何でからかいや思うねん、もてるやろ、あんた。」
        「もてへんよ。」
        「嘘言うなや。」
        「嘘ちゃうよ。そんなん・・・あんま言われた事あらへんもん。」
        「あんまっちゅう事はあるんやろ?」
        何故か糾弾する様な形で、陸男は和葉を追いつめる。
        何故和葉がもてないと思っているのか、
        水準以上の自分の魅力に気づいていないのか、探求心を煽られた。
        「・・・たまに、他の学校の人に、何やかや言われたりする事はあるけど、
        同じ学校の人にはそんなん言われた事あれへんし、
        友達は改方の生徒やから声かけて来るだけや言うてたし・・・。」
        「友達って、服部平次?」
        改方の女には一種のステイタス。
        自分も知る所である、世間の評価を、和葉の友人も口にしたらしいが、
        それはどう考えても、和葉自身には魅力が無いと思わせるに至る、かなり失礼な発言だ。
        しかし、裏を返せば彼女にそう思わせておきたいという、
        屈折した独占欲の様にも思える。
        つまりは服部平次の発言かと考え、陸男はそう畳みかけたが、
        和葉は目を見開いて静かにかぶりを振り、
        「ちゃうよ。クラスの子とか、剣道部の・・・平次の部活なんやけど、そういう子ら。
        あたしが呼び出されたりするの見とって、後でそんな風に言うたりするんよ。
        平次は・・・そんなん気にしたりせぇへん。」
        前半は苦笑い混じりに、そんな友人達の所業を言いつける様にして語っていた和葉だったが、
        後半の台詞には明らかに、諦めや寂しさの様なものが感じ取れた。
        「は・・・ん・・・。」
        ストローを噛みながら、そんな和葉の言葉を胸中で整理する。
        陸男には彼女の周囲の人間の心理が何となくだが理解出来た。
        改方学園で和葉に粉をかけようとする人間がいないのは、
        明らかに、有名すぎる程に有名な、
        彼女に近しい一人の人間にかなわないと考えての事だろうし、
        そんな事を知ってか知らずかの他校生が彼女に接触したとしても、
        どうやら彼女の周りには、彼女をその人間とくっつける為、
        他の男が言い寄る動機をくだらない物だと言い聞かせるなり何なりして、
        多くの外敵から彼女を守ろうとしている人間が数多く存在しているらしい。
        もしくは、その人間とくっつくのならまだしも、
        ぽっと出の輩に持って行かれるのは我慢がならないと言った所だろうか。
        何にせよ、この気丈な少女に、ああも寂しげな表情をさせる程、
        彼女に対し、真意は謎だが、無頓着らしい男の為に、世界は回っている様だ。
        「せやけどあんたもすぐ断ってまうんやろ。
        せやから相手が何考えて自分とこ来たんかわからんと、
        周りの意見鵜呑みにする様な事になるんやで。
        今度誘いに乗ってみ、おもろい事になるかもしれんで。」
        周囲の人間はもちろん、服部平次も含めて。
        何故か彼らに意地の悪い気持ちが働き、陸男はそんな提案をしたが、
        和葉は「何言うとんの。」と軽く笑い、まったく取り合わない。
        「せやから・・・。」
        そんな和葉に言い募ろうとして、
        自分の考えが、本来の目的から遠く離れた場所にある事に陸男は気づいた。
        こうも頑なな和葉を、
        誘おうと考えているのは。
        どこかおかしい。
        歯車が少しずつ狂っている様な感覚にとらわれる。
        陸男の奇妙な葛藤に、和葉は気づく由も無かったが、
        ふいに言葉を切った陸男を不審に思い、顔を上げた時だった。
        「「あ。」」