夏が咲く前に 3
「ま、そないにおっかない顔すんなや。
この先に俺の行きつけの店があるんやけど、そこ行って話さんか?
外は暑うてかなわんわ。」
平次に対し、何らかの考えを持って自分に接触して来たらしい人間に対し、
様々な考えを巡らせ、おだやかならぬ顔つきになる和葉に、
苦笑いを浮かべつつ、少年が提案する。
確かに、朝方の曇り空が嘘の様に、空は快晴を刻んではいたが、
同様に気温も上がり、立ち話をするには高すぎる不快指数が、
じんわりと浮かぶ汗と共に二人の体を取り囲んでいる。
けれど、少年が和葉を導こうとしている路地は、駅前通りの裏に位置する、
ゲームセンターや飲み屋等の、いわゆる盛り場が連なる通りで、
「行きつけの店」という単語が、一瞬和葉の精神に危惧を走らせた。
そんな和葉の心境を悟ってか、少年は、普段使う事が無いのか、
しばしポケットやカバンを探り、ようやく見つけだしたそれを、和葉に手渡した。
『大阪府立桐間西高等学校生徒手帳』
セージグリーンの装丁に、学校名が箔押しされた一般的な生徒手帳で、
裏面には今より幾分髪が短い彼の写真が張られ、
『2年E組 仁科 陸男』と印刷された身分証明書がビニール越しに収められている。
生徒手帳を見れば安心という訳では無かったが、
元より、ここまで来て引き返すのは性に合わない。
無言で生徒手帳を少年、仁科陸男に返却すると、和葉は彼に従う意を見せた。
それにしても、今日は何だか桐間西高に縁がある。
朝方の少女の制服を思い出しながら、
そう言えば平次はどうしているだろうと、
前を進む、いつもとは違う背中を瞳に映しながら考えた。
陸男が案内したのは、裏通りをしばらく進んだ、
盛り場の連なる通りよりも幾分落ち着いた雰囲気の通りにある、
古着屋やヘアースタジオの並びに位置する、古びた二階建ての木造のカフェで、
『BAGHDAD CAFE』と、
古いタイプライターで印刷した様な文字が踊る、ダークレッドの看板の下をくぐり抜けると、
店名の通り、砂漠の街にある様な、ベージュで統一された内装の、少し薄暗い店内には、
低い音階で謎めいた言葉を発する、聞いた事も無いような洋楽が響き渡っており、
不可解なオブジェの数々や、様々な国の酒瓶は、カフェと言うよりは、バー思わせ、
実際、夜半を回ればカフェの名を冠しつつも、バーになるのかもしれなかったが、
今は何組かの気の利いた格好の若者達が、音楽や会話や飲食を楽しんでおり、
それが和葉の安心を誘った。
しかし、通の隠れ家といった印象のこのカフェは、
高校生にはいささか敷居の高い場所の様にも思えたが、
陸男は行きつけの言葉通り、躊躇する事なく入り口の正面にあるカウンターへと進み、
飄々とした雰囲気の店長らしき男や、
棚にある何枚ものレコードを整理する大学生風の男と二言三言談笑すると、
「二階行くからここで貰てくわ。
あんた、何にする?」
と、ここから自分で品物を運ぶ意を彼らに告げ、
後ろの和葉に振り返ってメニューを差し出し、
「デザートも結構いけるで。」
と、殊の外親切にそう告げたが、
カフェだけあって、特に飲み物においては様々な種類の並ぶメニューを見て、
和葉は一言、
「アイスレモンティー。」
と、気を許していない事、早く本題に入りたい事がありありとわかる、
簡素な注文でそれに答えた。
陸男はさして気にする風も無く、
「それと、カフェアメリカーノ、アイスで。」
と、カウンターの中に告げ、
「俺持ってくから、先二階行っとって。」
と、和葉にカウンター横の階段を顎で指し示したが、
和葉はその言葉がまるで聞こえなかった様に動こうとはせず、
陸男の後ろで注文の品が出来るのを待った。
一瞬、和葉の態度に眉をひそめた陸男だが、
それが、自分が口にする物質から、目を離す機会を作らぬ為の行為だと悟り、
軽く肩をすくめる。
どういう生活をして来たんだこの女は。
その後、二階に上がり、窓際の席につくやいなや、
何気なく置いた伝票の下に、
消費税まできちんと加えられたアイスティーの代金がぱちりと置かれた時も、
陸男は特に意外には思わなかったし、
例えば他の女が同じ事をしたならばそうする様に、それを下げさせる様な事もしなかった。
もしも何事かあったとして、この場から突発的に去る事になったとしても、
この女は決して自分に借りを作らない。
伝票下の代金には、そんな予防線が感じられた。
・・・なんつう女や。
ため息混じりに目の前の女に何げ無く視線を移して、
次の瞬間、陸男は不覚だったと自責した。
窓から差し込む、午後の日差しを真横に受け、
少し伏し目がちになって、ストローの包装を開封している目の前の存在。
友人から、彼女の容姿が際立っている事は聞いていたし、
実際、彼女を判別出来たのも、そのおかげだった。
しかし、こうも落ち着いた状況の近距離で、
しっかりとまともに目に映してしまった和葉は、
美人とか美少女とか、そんな単語では形容しがたい程の生彩を放つ、類い希な存在の少女だった。
ここに来るまでにすれ違った、同年代の少年の、
羨望とも言うべき視線を思い出し、今更ながら心の中で鼻を高くし、
桐間西には容姿の優れた女子が多いが、
改方の女子は桐間西の女子に負けず劣らずの容姿に加え、
偏差値の点で天と地程の開きがある事から、才色兼備とされ、
連れて歩くのは桐間西の女子以上に、
一種のステイタスがあるなどと言っていた友人の言葉を思い出し、
和葉の存在に、その言葉の裏付けを得た気分ではあったが、
目の前の存在は、そんな馬鹿な考えの男には、決して従わない、
そんなある種の屹立とした意思を感じさせた。
それが伝わる、美しい光りを宿した、真っ直ぐな瞳。
今は、正体不明な自分を前にして、
その瞳は幾分冷めた感を放ってはいるが、
この瞳に、
熱をたたえて見つめられる男が、確かにいる。
陸男は、和葉に会う前から抱いていた、
服部平次に対しての負の感情が、
当初の考えとは別の意味をはらみつつ高まっていく事を、
ゆっくりと心地良く、前方を見つめながらも感じていた。