夏が咲く前に 1
観んといたら良かった・・・。
明かりを消した部屋のベッドに横たわったまま、
青白い光りを放つブラウン管をぽんやりと眺め、和葉は軽く唇を噛んだ。
外から聞こえる雨音と、
テレビから流れる低いギターの音色が悲しく重なった。
早く寝過ぎたのが悪かったのかもしれない。
いつもなら、朝まで目覚める事の無い健康体は、
深夜より降り出した、激しい雨音によって現実世界へと引き戻された。
そのまま何気なくテレビをつけ、その青白い明かりにより、
午前2時を指し示す時計の針を確認し、もう一度眠ろうとスイッチを切りかけ、
放映の始まった深夜映画に何となく引き込まれ、約二時間。
律儀に最後まで観てしまった洋画は、
万人受けするハッピーエンドであったにも関わらず、
和葉の心に小さからぬしこりを残した。
映画は野戦病院を舞台にした、
貧しいが清らかな心を持った看護婦の少女が、
戦場で運命的な出会いをし、看護婦を志すきっかけとなった青年医師を想い、
彼が病院長の娘と婚約している事に胸を痛めつつも、
最後には想いを成就させるという、
まるで少女漫画か昼のメロドラマの様な設定の、昔の恋愛映画で、
ひたむきに青年を想い続けた少女の恋の成就は嬉しかったが、
青年が少女に想いを告げるシーンでの、
「心配しないで、彼女とはただの幼なじみなんだ。
彼女のお父さんにはずいぶん世話になったしね。
でも本当に好きなのは君だけだ、彼女じゃない。」
その台詞は何故か、別の意味を持って、和葉の胸を貫いた。
ギターは今なお、静かな音色をもってエンディングロールに流れている。
ハッピーエンドなはずなのに、何故か悲しげな音色が殊更胸に痛い。
ぼんやりとその曲を聴きながら、和葉はため息を宙にさまよわせ、
今度こそ眠りにつこうと、曲の途中でテレビのスイッチを静かに落とした。
激しかった雨は朝方には上がり、
出掛けに観た天気予報は、梅雨明けが近日に迫っている事を告げてはいたが、
それでも空は昨夜の雨を引きずる様に暗く、
おおよそ夏の訪れを予感させぬ色彩を放っている。
昨夜は、
正確には明け方だが、あれからはどこかまんじりともせず、
少しは眠りについたのだろうかと、
考えてもわからない程にすっきりとしない朝を迎え、
体にのしかかる倦怠感と戦いつつ、
和葉はいつもより重い足取りで学校へと向かった。
どこか気持ちが沈んでいるのは、
間違いなく、あの深夜映画のせいだったが、
あの程度の事で落ち込むような、
女の子らしい性格ならば苦労はしないと、
やや自虐的に思う事で、歩む足取りに力を込める。
そのまま角を曲がって、人気の少ない路地に差し掛かり、
前方に、見慣れた後ろ姿を認めて、
こんな気持ちの時に、ご丁寧に登場してくれる事を恨むべきか、
朝から会えた事を素直に喜ぶべきか、
一瞬だけ考えて、前者はまったくの言いがかりだと考え足を速める。
後者の気持ちが、考えるまでも無く、勝っていたせいとも言えたが。
「へ・・・。」
幼なじみの名前は、途中で切るとかなり間抜けな音を発する。
なるべくなら最後まできちんと呼びたいと思っている気持ちに反して、
視覚が言葉を遮った。
平次に駆け寄る、一人の少女によって。
5メートル。
近隣の府立校である桐間西高の制服。
4メートル。
綺麗にブリーチされた、さらさらのストレート。
3メートル。
十人が十人、可愛いと言う様な、アイドルの様な顔立ち。
2メートル。
「あのっ、この間はありがとうございました!!」と、明るく響く、可愛らしい声。
平次と顔見知りだという事がわかるその言葉に、
進行方向にいる以上、嫌でも目に入る、少女を映していた瞳を和葉は落とした。
自分は知らない。
そして、知っていなければいけない理由も無い事実が、殊更和葉の瞳を落とす。
1メートル。
それは平次を中心に、少女と同じ距離。
その距離と同じく、少女の位置も、和葉の位置も、なんら変わりない様に思えて、
少女に向かっている平次の、その背中を、切ない瞳で一瞬とらえた。
0メートル。
歩き方が、ぎこちなくならないよう、必要以上に早くならないよう、
それでもこの場から早く去りたいと考えながら、和葉は二人の横を通り過ぎた。
東京の女に騙されてるとか、
大切な試合の前だからとか、
相手が大勢で困ってるからとか、
そんな、ある種の大義名分があれば、
幼なじみやお姉さん役の名の元に、あの間に割って入る事も出来る。
でも駄目だ。
あんな風にたった一人で勇気を出して朝の通学路で平次を待ち、
まっすぐな瞳で平次の前に立つ、そんな誰かを妨げる事は自分には出来ない。
おそらくは、同じ、恋を知る人間として。
それでもやはり、あの少女と平次の関係を気にしている自分は否めない。
あの少女は何を言って、
平次は何と答えたのだろう。
「心配しないで、彼女とはただの幼なじみなんだ。
彼女のお父さんにはずいぶん世話になったしね。
でも本当に好きなのは君だけだ、彼女じゃない。」
深夜映画のあの台詞が、嫌になる程鮮明に、脳裏に蘇った。