桜の中 3


        も・・・行かな・・・。
        皐を乗せた電車が見えなくなっても、和葉は一人、無人のホームに立ちつくしていた。
        改札近くの駅員が、けげんそうな顔をこちらに向ける様子に気づき、のろのろと行動を起こす。
        スカートに財布だけは入れていたものの、それ以外の荷物も、自分の分の料金も、
        そして、クラスメート達への断りも、
        何もかも放り出して来てしまったカラオケ店に、とりあえずは戻らなければならない。
        皆はどうしているだろう。
        どう考えても解散の時刻だが、消えてしまった皐や自分を探しているかもしれない。
        こんな時間に、40人近くの人間を彷徨わせている事を考え、
        和葉は直情径行な自分の行動に青ざめながら改札をくぐり、
        まずは誰かに連絡を取ろうと財布を探ったが、
        駅前を行き交う人々が、自分の顔をじろじろと見ている事で、
        涙でぐしゃぐしゃであろう、自分の顔の状態に考えが行き着く。
        やっ・・・。
        思わず口元に手をやり、周囲から顔を隠す様に慌ててうつむく。
        どうしようかと瞳をゆがめたが、
        ふいに、黒と灰色の、少しくたびれたガムラバーソールのスニーカーがその視界に飛び込み、
        和葉は目を見開いた。
        この靴は。
        見慣れた物だと、感覚が知らせると同時に、反射的に顔が上がる。
        「あ・・・。」
        突然の事に上手く言葉が紡げない和葉の前に、
        怒った様な、困った様な仏頂面を浮かべた幼なじみがたたずんでいた。



        突然の平次の登場に驚いたものの、
        今の自分の顔の状態を考えて、和葉は思わず、再びその瞳を降下させた。
        しかし、色々と言わなければならない事と聞かなければならない事がある事を思い出し、
        何とか口を開こうとするが、涙の後では、上手く言葉が出て来ない。
        それが、普段から素直になれない想い人の前ならば尚更で、
        恥かしいとか、格好悪いとかいった類の、羞恥心ばかりが胸を支配して行く。
        そんな和葉の頭上に、ふいに何かが、
        ぽすん、と落とされた。
        「え?」
        その何かにより、柔らかな闇が視界を覆い、思わず顔を上げて頭に手をやると、
        感触と温度が、平次の頭から離れた、彼のお気に入りの野球帽である事を教えた。
        「な・・・。」
        和葉の頭には大きいその帽子は、つばの重みですっぽりと、和葉の泣き顔を隠す。
        しかし、困惑した和葉がその意味を悟るより速く、
        今度は呆然としたままの左手を引かれた。
        「ちょっ・・・。」
        いささか乱暴なその手の持ち主は、
        そのまま和葉を引っ張る様にして駅前を行き交う人々の間を進んで行く。
        一瞬、動きが早いと感じた和葉だったが、
        それは手を取られるまでの事で、
        それから後は、平次の歩みは、普段、後ろを追いかける時よりも、
        ひどく緩やかだという事に気づく。
        「・・・平、次。」
        何とか、発する事の出来た言葉で静かに呼びかけてみる。
        「わかっとる。」
        怒っているのかと思う程、
        実際、怒らせる様な事をした自覚が和葉にはあったが、
        目の前に現れた時から、終始、無骨な態度の平次だったが、
        和葉の呼びかけに答えた声は、驚く程穏やかなものだった。
        「椎名、見送れたか?」
        続く言葉に、平次はすべてを悟っているのだという事に気づく。
        そういえば皐は、平次が現れる事を予言していた。
        やはり、名探偵は侮れない。
        「・・・うん。」
        「そうか。」
        「あ・・・。」
        鼻から抜ける様な自分の声を気恥ずかしく思うものの、
        まだ色々と発しなければない言葉を考える。
        しかし、
        「皆にもだいたい伝わっとるから。
        大丈夫や言うて帰したし、金も払っといた。お前の荷物も持って来とる。」
        平次は和葉の言葉を遮る様に、
        和葉が心に抱えていた不安に対する、すべての答えを無駄なく提示し、
        和葉の荷物が入っている事を教える様に、左肩にかけた自分のスポーツバッグを軽く持ち上げてみせた。
        「・・・・・・。」
        胸の辺りが軽くなる。
        自分のした事は、また改めて皆に謝らなければならないが、
        今この状態で、心配事の数々が解消されて行くのはありがたかった。

        そして、平次の言動の数々に含まれた優しさにも、ようやく思考が追いつく。
        駅まで来てくれた事、帽子をかぶせてくれた事、手を引いてくれた事、
        不安を汲み取ってくれた事、少ない会話で済ませようとしてくれた事。
        おそらく、皐の行動と和葉の行動を察した上で、
        クラスの皆に上手く伝えてくれたのも平次なのだろう。
        「ごめ・・・ありがとぉ。」
        「ええから。」
        泣きそうな声で、懸命に謝罪と感謝の言葉を述べると、
        またも遮る様な短い言葉が返されたが、
        その言葉にもまた、優しさを感じ、
        和葉は空いている右手で口を押さえてしゃくり上げた。
        左手が、一層力強く握られる。