桜の中 2
「・・・どつかれるかと思た。」
「そんな乱暴な事せえへんもん・・・。」
驚きながらも背中に手を回す皐に、甘える様に擦り寄ると、
心境の変化か、冬が始まる頃に伸ばし出した、
ずっとベリーショートだった、色素の薄い、柔らかな髪が和葉の耳朶をくすぐった。
「服部なら、どうだったかなー。」
かすれ声で言う、決まらない軽口が、余計に切なさを増幅させる。
皐、皐。
人を笑わせるのが得意で、白が似合って、口の端を吊り上げて笑う癖があって、
二つ年上の従兄が大好きで、バレーの試合でミスをした時は一人で悔し涙を流して、
お祖母さんが炊くからと言っては伽羅の香りを漂わせて、サンドイッチを作るのが抜群に上手で、
女の子に本気で告白された事があって、鳥と雲の名前をいくつも憶えていて、
似合わないけどと前置きをしながら可愛い雑貨屋に行くのが大好きで、
活発に映る言動の裏、誰よりも細やかな気づかいが出来て、
「かーず、は。」
二人の時は甘えさせてくれて、
「あんた泣かしたら、服部に、怒られてまうよ。」
平次との事を、たくさんからかって、
「っく・・・泣いとらんよ・・・。」
でもその揶揄が、二人きりの時だけで、
騒ぎが広まる様な、他の人間がいる様な時には決して行われない事を和葉は知っている。
知っているから、今日はその軽口が、ずっと我慢していた涙を呼んだ。
嘘をついた唇を、涙が静かに伝って行く。
「・・・泣かれるん・・・駄目やから、黙って行こう思うてたのに・・・。」
「わかっとる・・・ごめんな・・・。」
抱きついたままの和葉の髪を、皐が優しく撫でる。
女同士、夜のホームで抱き合うという行為は、あまり日常的なものではないだろうから、
人気のない事はありがたかったが、
もしここが、ラッシュアワー時の様に人であふれ返っていたとしても、
二人は同じ事をしていただろう。
「でも・・・でもな、少しだけ、誰かが来たらええなって、思た・・・。」
そして、ここにたどり着くのは和葉だと、予感していた様にも思う。
「ん・・・皐が一人で行ったと思うた途端、飛び出して来てしもた・・・。」
そろそろカラオケもおひらきの時間だ、
さすがに皆、二人がいなくなった事に気づいているだろう。
「皆、怒っとるやろなー。」
「皐が悪いんやから・・・。」
「はいはい。」
「せやから・・・またこっちに来て、一緒に皆に謝ってくれなあかんよ?」
そっと身を離して、濡れた目を細めて、照れ隠しの様な口調でそう言って、
和葉が優しい表情で皐の顔をのぞき込む。
「わかっ・・・・・・。」
明るく返事を返そうとして、
夜の中で静かな輝きを放つ、和葉の瞳を自分の瞳に映した時、
ずっと堪えていた物が、皐の目から溢れ出した。
澄んだ瞳と同等の、美しい水。
無粋な程に淡々としたアナウンスが、皐の乗る電車の到着を知らせ、
次いで、闇の中から柔らかな光りを灯した車体がゆっくりと現れる。
「二人共、顔ぐしゃぐしゃやね。」
もう、泣いてはいけないと、わざと笑ってそんな言葉を口にする。
「和葉はええけど、あたしなんかここから一人やで?
うー、ずっとフードかぶっとこ!!」
少しふくれて、皐がパーカーのフードを首の後ろでばたばたと動かす。
「え? あたしかて一人やよ?」
不思議そうに言葉を返す和葉に、
皐は赤い目を細めて、口の端を吊り上げて微笑んだ。
「服部が来とる。」
「えっ!?」
思わず大声を上げてしまった和葉の声は、
停車した電車のブレーキ音にかき消されたが、
ホームを見渡してみても、改札近くに駅員がいるのみで、
開いたドアから降り立つ乗客もない駅は、相変わらずの無人状態である。
「もう・・・また変な事言うて・・・。」
「変な事なんて言うとらんよ、服部ならここもわかるやろし、
時間も時間やけど、あいつがこんな時期に和葉を一人にする訳ないやん。」
「こんな時期って?」
きょとんとした表情を浮かべる和葉に、
皐はもう一段階口を吊り上げて、
「ああかわええ。」
と、芝居がかった調子で一言。
「ま、皐サンを信じなさいって。
今まで、他の事かて、結構な的中率やったやろ?」
自信満々に笑って、軽やかに電車へと乗り込み、
「高校の制服、楽しみにしとるから。」
と、意味ありげに和葉の顔をのぞきこんだ。
「さ、皐かて見せてくれなあかんよ!?」
思わず大声を出してしまったのは、
他の電車の通過待ちをする訳でもない電車が、無情にも早速の発車を知らせた為である。
ドアが二人を遮って、ガラスの向こうで皐が頷くのが見える。
電車がゆっくりと車体を動かした。
「・・・・・・!!」
慌てて電車を追いかけながら、和葉は言葉を探したが、
別れの時に「さよなら」を言うのは寂しいという、
ありきたりな歌や小説の文句が思い出されるばかりで、
喉の奥のくぐもった痛みに邪魔される様に、何も言葉が出て来ない。
代わりに、もう流さないと決めたはずの涙が溢れた。
笑っていたはずの皐も、表情を歪めるのが見える。
そうして、再び皐の涙を確認するのと同時に、電車は加速を強め、
互いの姿を視界から消した。
遠ざかる電車の音は、次第に低く、静かになって行くのに、
別れの線ははっきりと、目に見えるかの様だった。