桜の中 1


        自分の息が耳の横を通り過ぎて行く。
        すれ違う人々が何事かと目を見開く程の速度と表情で、
        夜の影を落としつつある、見慣れた街の中を、和葉は脇目も振らずに走り続けた。
        冬ならば衣服が、夏ならば気温が邪魔をして、
        こんな速度では走れなかったかもしれない。
        柔らかな風を頬へと送る今の季節に感謝しかけたが、
        即座にその考えを振り払う様に眼差しをきつくする。
        今、走らなければならないのは、
        今が、春だからだ。

        春は曖昧な季節でありながら、様々な物事の形をはっきりと変えて行く。


        卒業式は想い人や部活仲間や家族とのイベントを優先させ、
        クラスのの仲間同士では、春休み初日である後日、
        私服でゆっくり会おうと決めたのは前々からの事、
        青春ぽさを演出して河原に集合して、
        周りに少し嫌な顔をされながらファーストフードで賑やかに食事をして、
        一日前に後にした中学校を、懐かしいとふざけながら、
        それでもやはり懐かしいと感じながら通り過ぎて、
        予約なしのカラオケ店で椅子をぎゅうぎゅうにしながら、
        最初は恥かしがって誰も唄い出さなかった歌を、いつしかマイクを取り合う様に唄って、
        今日はこのまま騒いで終わるのか、それとも名残惜しい雰囲気となるのか、
        頭の端でそれぞれが考え出す頃、
        和葉はただひたすら、夜の街を走り続けていた。

        皐のアホ皐のアホ皐のアホ皐のアホ皐のアホ皐のアホアホアホアホアホッ!!
        かの幼なじみに対しても、
        ここまで連呼する事はめったにないであろう雑言を口中で繰り返す。
        明日ゆっくりお別れ会しようねって皆で決めたのに!!
        香がケーキ焼くって言うとったのに!!
        あたしかてずっと悩んでたプレゼント、結局両方買うて、
        だいたい皐はいつもいつも自分の事はそうやって、
        盲腸で入院した時も黙っとったし、財布落とした時かて一人で探して、
        皆で話した時、誤魔化すみたいに笑てたからあの時からあの時からああもう!!
        頭の中は支離滅裂になって行くばかりだが、
        見失う事のない事実がただ一つ、
        春からの新居である和歌山に引っ越すのは明後日だから、
        今日はその事は考えずに皆で盛り上がろうと宣言し、
        何でもない顔をして終始皆と共にはしゃぎながら、
        カラオケの盛り上がりに紛れ、電話や用足しに行く人間に紛れ、
        いつの間にか自分の分の料金をフロントに渡して店を出て、
        一人、旅立とうとしている椎名皐を、和葉は怒っていた。


        「すごーい、さすが名探偵の幼なじみー。」
        まったく人気のないプラットホームで、
        白いパーカーに両手を突っ込んだままの、ばふばふという音の悪い拍手に迎えられ、
        和葉はからりとした笑顔を浮かべる皐を、息も絶え絶えに睨みつけた。
        見つける事の出来た安堵感と、平素と変わらない態度に対する脱力感で、
        足元がぐらりとふらつきそうになる。
        「・・・なっ・・・んで・・・。」
        「何ではこっちの台詞や、ようここにおるってわかったなぁ、家かもしれんのに。」
        「・・・家、暗かっ・・・。」
        「うわ、和葉チャンの俊足、ナメてましたー。
        こら電車乗っとっても追いつかれたかなー。」
        「ふざけんといっ・・・。」
        肩で息をして、皐に歩み寄り、そう、強い口調で言いかけて、和葉の表情が歪む。
        どんなに怒ってみても、
        一人でこうしてここに立つ、皐の性格が、気持ちが
        和葉には本当はわかっているから。
        いっそ、わからなければ良いと思う程にわかっているから。
        「・・・ごめんな。」
        ふざけていたかと思えば、急に真面目になる。
        これも皐の性格だ。
        ずるい。
        皐の立場でこの台詞を出されたら、和葉にはもう、何も言えない。
        「・・・家の皆はもう向こうに行っとるんよ。
        あたしもほんまは式の後すぐ行かなあかんかったんやけど、
        皆で騒ぎたかったから昨日は一人で家に残って・・・。
        明日も、ほんまは行きたかったけど・・・でも、でもな・・・。」
        和葉の呼吸が落ち着いて行くのと平行する様に、
        淡々とした皐の言葉が流れたが、最後は少しかすれ気味に空気に流れて消えた。
        「・・・そんなら、今日言うてくれたら・・・。」
        「せっかく皆で盛り上ろうって日に、そんなん悪いやろ?」
        「・・・・・・っ!!」
        皐ならそう答えると、わかっていたはずなのに、一気に体の温度が上昇する。
        そんな、そんな事を気にする時じゃないのに。
        大切な友達との別れに、そんな事は関係ないのに。
        次の瞬間、和葉は思わず手を上げて、
        そして、
        皐に抱きついた。