近距離の遠い道 1


        降車した途端、6℃の冷気が容赦なく体を包む。
        暗闇の中に窓が開いた様に、灯りだけを浮かび上がらせて走り去る電車を、
        何とはなしに見送る頬に、雪を予感させる香りをはらんだ静かな風。
        期待と、少しばかりの不安を感じつつ、
        改札に吸い込まれる切符を確認し、マフラーと手袋を装着する。
        切符といえば、半券はどうしただろうと考えて、
        数枚の紙幣と共に、きちんと財布の中に収まっていた様子を思い出し、安堵する。
        友人が義理の姉から譲り受けたという事で、急遽誘われた劇団の舞台観覧は、
        和葉にしてみれば、座ってみるまで内容もわからない、
        演劇部所属のその友人の様な、後学を伴うなどという殊勝な心構えもない、
        まさに付き合い以外の何者でもない行為だったのだが、
        舞台は予想以上の完成度と面白さで、
        約二時間、引き込まれる様な一時を過ごした後、
        きちんと半券を保存しておきたいと考えている自分がいる。
        友人とも、夕食を取りつつ、感想を言い合う事に夢中になってしまった。

        そして現在、地元駅に帰り着いたのは、二十時少し前。
        休日である今日の朝方、静華から電話を受け、
        渡したい物があるから昼食がてら来ないかと、服部家に招かれていたのだが、
        その時はすでに、友人と出掛ける事が決まっていたので、
        断りつつ、日延べを申し出る和葉に、
        静華は和葉の外出があまり遅くならない事を勧める意味も込めてか、
        晩の二十時に約束を仕切り直した。
        他家を訪ねるには微妙な時間である事に、一応、迷惑ではないかと和葉は訊ねたのだが、
        「それが迷惑なら、平次は今頃犯罪者やわ。」
        と、息子の数々の所業を考えてか、ため息混じりにそんな事をつぶやきつつ、
        「だいたい和葉ちゃん、うちに対して変な遠慮せんといて。寂しいわ。」
        などと、拗ねられてしまった。
        そんな静華を可愛いと思うと同時に、そんな風に言って貰える事は嬉しくもあり、
        二つの暖かな感情は、自然な笑みを和葉に刻ませる。
        けれど、あまりにも遠慮がないのも考えものだと、
        思考はつれづれに、手土産の算段を始めていた。
        それこそ怒られそうな事ではあるのだが、
        静華の「渡したい物」という言葉もまた、その考えに拍車をかけている。
        尋ねる和葉に、その正体を明かしてはくれなかったが、
        常日頃、「可愛いかったから。」「似合いそうな色やし。」「今流行りなんやて。」などと言っては、
        洋服や鞄、靴や小物に到るまで、和葉に色々と「渡したい物」のある静華である。
        安からぬ品物の数々に遠慮を見せるものの、
        双方の親の間で、何事か言い交わされているのか、
        自分の親にまで「気持ちよう貰っとき。」などと言われては、
        和葉には受け取る以外に道はないのだが、少しでも、お返しはしたい。
        無論、それが物品に限らない事は和葉にもわかってはいるが、
        夜半の訪問は、イコールで手土産という答えを導き出していた。

        ケーキ・・・よりは和菓子かな、でもこの辺あんまええお店ないし・・・。
        二十時を前にして、徐々に閉店の兆しを見せる、駅前の店を横目に考える。
        先程までいた駅なら、駅ビルに気の利いた店が入っていただろうと、
        友人と共に電車に乗り込んでしまった事を悔やんだが、後の祭りである。
        そんなら花とか・・・。
        駅から服部家までの道すがら、少しわき道に入れば、
        二十一時まで営業している、静華の懇意にしている生花店がある。
        どちらかと言えば渋い店構えで、普通なら敷居が高いと感じる所だが、
        和葉も静華と共に何度か訪れた事があるし、
        店長の親戚筋だと言っていたか、愛想の良いバイトの青年もいる。
        何か、可愛らしい鉢植えでも見繕って貰おうと、様々な季節の花に思いを巡らせたが、
        ふと、平次の事を思い出す。
        母親が懇意にしているにも関わらず、かの息子は、
        何故か和葉があの店に足を運ぶ事に良い顔をしない。
        最初は気のせいかと思っていたが、
        先々週、盲腸で入院した同級生の見舞いの花をあそこで買ったと話したら、
        病院の手前にも良い店があるだろうと憮然と返された事で確信した。
        また何かやらかしたんかな・・・。
        平次が一人であの店を訪れるというのも想像がつかなかったが、
        以前、二人で買い物に行った事から、そんな考えを導き出して、
        和葉は軽く肩をすくめる。
        思えばあの頃までは普通にしていた様にも思えるし、
        本当に、目の届かない所では、・・・届く所でもだが、
        何をやらかすかわからない幼なじみである。
        結局、どうしようか考えあぐねて、ふと腕時計に目をやると、
        時刻は約束の時間を八分ばかり過ぎていた。
        あかん、連絡せんと・・・。
        慌てて辺りを見渡して、公衆電話を探す。
        文明の利器、携帯電話はと言えば、朝方、友達からのメールを確認した後、
        机の上に置き忘れてしまった事を、
        劇場に入る際、電源を切ろうとして初めて気が付いた。
        便利な物がないのは不便な事だと、当たり前の事を自責しつつ実感しつつ、
        しばらく先にコンビニがあった事を思い出し、
        財布の中のなかなか使う機会の無いテレホンカードを探しながら、路地を走る。
        駅から少しばかり離れた、住宅街にさしかかるこの道は、
        店らしき店も途絶えており、どこか心もとない。
        暗闇に灯るコンビニの明かりに安堵を感じながら、和葉が走る速度を速めた時だった。

        ふいに、真横から現れた黒い影が進行方向を遮って、和葉の肩をつかむ。
        何事かと、研ぎ澄まされた神経に、続けて荒い息遣いが響き、
        和葉は全身の血の気が音を立てる様に引いて行くのを感じつつも、
        頭の中では一足飛びに、突然の襲撃者に対するこの状態からの対処法を、
        武道の型をもって、計算していた。