角度の問題 2
「おーう、和葉ちゃんやないか。何や、おっちゃんに聞いて来てくれたんか?」
けろり。
それ以外に、どんな言葉があるだろう。
そうとしか言えない様子で、そうとしか言えない声で、
病室のベッドの上から青いスウェット姿の政悟が笑いかける。
「・・・・・・。」
ノックをして、返された女性の声に緊張しつつ入室した和葉は、
そんな政悟の様子に一言も発せぬまま、
泣く寸前の様なこわばった顔で、その場にぺたりと座りこんでしまった。
「おいおい、どないしたんや。」
政悟はと言えば、そんな和葉の様子に慌てて身を起こしてみせる程、
健康な様子である。顔色も良い。
「お父ちゃんが・・・政悟さんが重体って・・・・・・。」
「はぁ? あ〜、和葉ちゃん、何か早とちりしたんとちゃうか?
昼間、職場で監視台の上から落ちて、情けない事に気絶してしもてなぁ・・・。」
救急車を呼ぶ様な事態は、スクールへと来た小学生の生徒達の動揺を誘ったらしく、
彼らにより、意識不明だ重体だと、ちょっとした騒ぎに発展してしまったらしい。
その知らせを受け、政悟の父も職場から病院へと直行したのだが、
政悟が気を失ったのは一瞬の事で、その後の検査の結果も問題なし、
明日には退院出来る、と言うか、帰ってくれと言われたそうだ。
「親父、今晩和葉ちゃんとこのおっちゃんと飲む時の肴にする言うて帰ってったからなぁ。」
「・・・・・・。」
きっと、父は今晩会う政悟の父からの事前連絡か何かでその事を聞き、
病院近くにいる和葉に様子を見て来る様に言うつもりだったのだろう。
思い返してみれば、「重体」という言葉を聞いた途端、気が動転してしまって、
父の話を充分には聞かなかった気がする。
受付でも同様で、もう少し落ち着いて話を聞くべきだったと、和葉は紅潮して行く頬を押さえた。
「お父ちゃん、声が真剣なんやもん・・・。」
職場からだという事もあるかもしれないが、
恥ずかしさから責任転嫁する様にそうつぶやくと、
「渋キャラやからな。」
と、政悟が笑って付け足した。
「でも良かったわ、何ともなくて・・・。ほんまに心配したんよ?」
勘違いとはいえ、何事もなかったのなら、これ以上良い事はない、
力の方はこれ以上抜けようもなかったが、肩を落として息をつくと、
和葉は快活に笑う政悟を見上げて目を細めた。
「ははは、そら光栄やなぁ、和葉ちゃんみたいなかわええ子に心配して貰て。
けど、和葉ちゃんにあんな顔させたんがばれたら、平次に怒られてまうわ。」
「え・・・?」
政悟のお世辞と、突然出された幼なじみの名前、
どちらにどう返答を返して良いのかわからず、和葉は呆けた声を漏らした。
「・・・もう、立ったら? 冷えちゃうわよ。」
そこに突然、透明感のある女性の声が響き、和葉は目を見開いた。
そこでようやく、自分が病室の床に座り込んだままだという事に気づき、慌てて立ち上がり、
声のした方向を見れば、一人部屋である病室の片隅に、一人の女性がたたずんでいる。
そう言えば先程、ノックに答えたのは女性の声だった。
「あ・・・あの、すみません!!」
政悟の状態に驚いた事もあって、女性の存在に気がつかなかった。
洋服の裾を直しながら、和葉は自分の非礼を詫びた。
「あー、大丈夫大丈夫。」
少し緊張した空気をかくはんする様に政悟が軽い声を上げ、
「和葉ちゃん、この人は俺の同僚で紺野式子さん。
今日は付き添いで来てくれてな、
美人やろー? 長い事、口説いとるんやけどな、一向になびかへん。」
ベッドの上にあぐらをかきながら、おどけた調子で女性を紹介する。
「馬鹿な事言わないで。
だいたいあなた、明日退院とはいえ、打ち身のせいでしばらくは自宅療養でしょう?
職場の皆に迷惑をかける事になるんだし、
あんな騒ぎを引き起こしたんだから、少しは責任について考えたら?」
政悟の紹介に笑顔を浮かべて挨拶をしようとしていた和葉は、
ぴしゃりと響く様な式子の物言いに、いささか気圧されて口をつぐんだ。
その言葉が標準語だという事もあるが、式子自身の容姿にかかる所も多い。
歳は政悟と同じくらいだろうか、
長い髪を一つに束ね、控えめな化粧をほどこした、落ち着いた雰囲気の美人で、
すらりとした体型も相俟って、花で言うなら水仙を思わせる。
冷たい印象を与えない事もなかったが、
あんな風に、厳しい言葉が矢継ぎ早に発せられるのは意外だった。
しかし、政悟は式子の物言いを特別気にした様子もなく、
眉を落として「すまんすまん。」と謝ると、
「そんで、こっちが遠山和葉ちゃん。よう話しとるやろ?」
と、式子に和葉を紹介した。
一体何を話しているのだろうと、気にはなったが、
とにもかくにも式子に向かって、和葉は再び頭を下げた。
そんな和葉の様子に、怖がらせたと感じたのか、式子は少し困った様に、
「ごめんなさい。」と「初めまして。」という謝罪と挨拶を交互に述べてみせた。
標準語以前に、日本語をきちんと話す人だという印象が残る。
「原田君のお父さんの、お友達の娘さん、よね?」
よく話しているという政悟の言葉を受ける様に式子が和葉に問いかける。
「あ、はい。」
「まぁ、飲み友達やな。家が近いからよう寄せて貰てなぁ、
和葉ちゃんの料理がまた絶品で、酒が進むんや。朝まで、っちゅう事もあったよなぁ?」
「それは政悟さんだけで、お父ちゃん達はそんなに長い事飲まへんよ。」
「まぁ、おっちゃんは仕事柄・・・あ、いや、
式ちゃんも、俺のええ人や言うて、一辺遠山のおっちゃんに紹介したいんやけどなぁ。」
「何言ってるの? 毎回二日酔いで皆に迷惑かける癖に、全然反省してないのね。」
和葉の父の職業については、伏せた方が良いと考えているのか、
滑りかけた口を曖昧に濁すと、政悟は式子に笑いかけたが、
案の定、そっけない以上の言葉で切り返される。
「この通り、この人つれないねん。」
「・・・・・・。」
どう答えたものかと、和葉は眉を落として曖昧に笑ってみせたが、
先程同様、気にした風もない政悟の傍ら、
式子が少しだけ悲しそうに目を伏せるのを目にし、おや、と思う。
しかし、式子の表情の理由について考えようとした矢先、
その後方の窓から見える景色が茜色から紺色へと変わり始めた事に気づき、はっとする。
「あ・・・もうこんな時間・・・。そんならあたし、そろそろ・・・。」
「何や、まだ来たばかりやないか。」
部屋の時計で時刻を確認し、いとまを告げる和葉を政悟は引き止めようとしたが、
「まぁ、今日は送って行けんし、あまり遅なってもなぁ・・・。」
自分の状態に気づき、残念そうに苦笑いを浮かべる。
「当分、自宅療養になるんやろ? そしたらまた、家の方に行くから。」
「おおきに。なるべく早く治す様に心がけるわ。
そんなら和葉ちゃん、気ぃつけて。おっちゃんによろしゅうな。」
「うん。政悟さんもお大事に。」
政悟と言葉を交わし、最後に式子に挨拶をしようと和葉は式子に目を向けたが、
何故か式子はぼんやりと、窓の外を見つめていた。
先程の和葉の様に空を見ているのではなく、下方を見ているのだろうか、
水仙を思わせるはかなげな体が窓辺にたたずむ様子は一枚の絵を思わせる。
しかし、不思議そうな表情を向ける和葉に気づくと、式子はすぐに顔を上げ、
「じゃあ、下まで送るわ。」
そう言って病室を横切り、政悟や和葉が言葉を発する間もなく、和葉を廊下へと導いた。