<短期集中連載・坂の上、ふたり 1>
「和葉、平次を連れておいで。」
祖母のその一言で決まりだった。
その一言で、集まった親戚達は何も言わずに解散してしまった。
夏を間近に控えているとはいえ、
まだそうきつくはない陽射しを受けながら、
海と共存する様な、小さな街を目指して坂を下りる。
後方には、左右に白壁を広げた大きな武家屋敷が、
背後の山々に勝るとも劣らない風格で居を構えている。
この、改方の街に住む者ならば知らぬ者はいない、
服部家の屋敷である。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 2>
服部家と言えば、
先祖は改方の港を束ねる網元として知られていたが、
戦後の混乱期、資産を元手に安く買い取った多くの土地が、
鉄道の発達により、想像以上の高値となり、
一気に昭和の山林王として名を馳せた。
その後も不動産業を基盤に、幅広く手を広げ、今や資産は数億、
東京にもいくつかの会社を所有する、地元きっての名士である。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 3>
一年前に先代を病気で亡くしているが、
立派な跡取りがあるので、服部家も安泰だろうと、
街の人間が噂していた矢先、
自動車事故により、跡取りは先代の後を追った。
以前に家同士の諍いがあったと、
二十年、父親により結婚を反対され続けていた内縁の妻と、
父の一周忌を済ませ、ようやく籍が入れられると、
共に出掛けた矢先の出来事だった。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 4>
この一週間の事は、和葉は思い出したくもない。
内縁とはいえ、伯父に連れられ、
小さな一軒家に遊びに来る和葉に対し、
何かと良くしてくれた、優しい伯母だった。
誰が見ても、似合いの夫婦だった。
しかし、葬儀は当然の様に別々に行われ、
慌しさの中、悲しむ間もなく、
跡目争いをすべく、係累すら定かでない親族達が、
次から次へと屋敷へと訪れて来る。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 5>
係累すら定かでない。
そう考えて、和葉は自重気味に唇を歪めた。
それは、自分も同じ事だ。
遠山和葉は自分の両親を知らない。
赤子の時に服部家に引き取られた、
遠縁の遠山家の娘だと教えられ、
先代を祖父、その息子を伯父と呼び、
服部家の孫娘として何不自由なく育てられて来たが、
女に関しては噂の絶えなかった祖父が、
どこかの若い女に産ませた子ではないかと、
口さがない親戚連中が噂しているのを耳にした事がある。
和葉が祖母と呼ぶ桂もまた、
和葉が産まれた頃に服部家に来た、
祖父の三度目の妻である。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 6>
祖母の事を考え、和葉は少し、
落ち込んでいた気分を上昇させた。
元は東京・辰巳の芸者である、この後妻に対し、
親戚達が誤算だった事は、
この女が経営に関してずば抜けた才覚を持ち、
先代の絶対的な信頼の元、事業を拡大、成功させ、
親族一の発言権を持つ様になってしまった事だろう。
「服部様は三番目の御寮さんのお陰で更に大きくなった。」
当時、街の人間が、顔を合わせては言っていた事である。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 7>
そうして、葬儀後、落ち着きも取り戻さぬままに、
後継者は誰だと騒ぎ出した親戚達に対し、
それまで沈黙を守って来た祖母が、
鶴の一声とばかりに口にした名前は、
親戚達には意外だったろうが、
和葉にしてみれば、胸のすく様な思いだった。
服部平次。
亡くなった伯父と、内縁の妻である伯母との間に出来た、
ただ一人の忘れ形見である。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 8>
伯父と伯母の間に認知済みの子供がある事は、
祖父には隠していた様だが、
祖母の目利きは仕事に対してのみではなく、
継子とその家族に対し、何かと気を配っている様であり、
伯父もまた、この継母には心を開いていた。
「だからさっさと一緒にさせてやりゃあ良かったんだ。」
伯父夫婦の亡くなった日、祖母が祖父の仏前で、
口惜しそうに小さくつぶやいたのを和葉は聞いている。
一週間、勝手に葬儀を進める親戚達に対し、
黙って好き放題をさせていたのは、
もしかすると、静かに悲しみの淵に、
その身を置いておきたかったからかもしれない。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 9>
服部平次は坂の下の街に、
母である伯母と二人で暮らしていた。
和葉と同じ高校二年で、
伯父に連れられ、
小さい頃からしょっちゅう家に遊びに行っていた和葉とは、
親類と言うより、幼なじみと言った方がしっくり来る。
和葉に対する平次は、
子供っぽいし、喧嘩っ早いし、意地が悪い。
しかし、快活で、頼り甲斐があって、
一緒にいて飽きる事がない程楽しい相手であるのも事実だ。
それぞれ近隣の男子高と女子高に通っているが、
顔立ちが整っている上に、腕が立つし、頭も切れると、
同級生の少女達の評判になっている事に目を丸くした事もある。
顔を合わせれば何かと言い合いをするものの、
二人は基本的には仲の良い幼なじみだった。
そう、数年前までは。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 10>
平次の様子がおかしくなったのはいつの頃からだろう。
少し前までは、ただただ無邪気に同じ時間を過ごして来た様に思うが、
いつの頃からか、何かの拍子に深く真剣なまなざしを向けられる事や、
はっきりそうだとわかる程の、距離や拒絶を感じる事が多くなった。
それでも和葉は昔と変わらず、
何も知らないふりを装って平次に接して来たが、
伯父と伯母の通夜の日、平次の気持ちははっきりとした形で、
和葉の胸に突きつけられた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 11>
事故の原因でもある、酷い雨が続いていた。
服部家では伯父の通夜が行われている事もあり、
ずっと平次の事が気になっていた和葉が、
家を抜け出す事が出来たのは、21時を過ぎた頃だった。
街に張られた案内で、伯母の葬儀もまた、
伯母の親戚達により進められた事を知り、
急いた気持ちで家へと向かった和葉を、
丁度、家から出て来た平次が出迎えた。
「平次・・・。」
普段と違い、きちんと留められた学生服の襟元を、
物悲しい気持ちで見つめながら、
何と言葉をかけて良いかわからず、
雨に濡れた平次に自分の傘をさしかける。
しかし平次は、静かにそれを払うと、
今までで一番、静かで冷たい目と声で、
「帰れ。」
そう一言、和葉に告げた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 12>
一度に両親を亡くしたのだ、
並の精神ではなかっただろう。
しかし、和葉は平次の態度が、
その場限りのものではないとわかるだけの、
ここ数年の哀しい積み重ねがあった。
もう、何も知らない振りは出来ない。
何が原因かはわからないが、
平次はもうずっと、自分の事を嫌いだったのかもしれない。
伯父や伯母の手前、それを露わにする事が出来なかっただけで。
祖母が平次の名を口にした事は、心の底から嬉しかったが、
今の和葉に平次を連れて来るという役目は荷が重過ぎた。
下り坂なのに重いと感じる足を踏み出しながら、
小さく息を吐き出した。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 13>
心労を抱えつつの訪問であったにも関わらず、
服部家は無人であった。
小さいが、上品な作りの一軒家の、
暗く、閉め切られた様子に途方に暮れる和葉に対し、
植木の水遣りに出て来た隣家の婦人が、
留守を預かっていると、詳細を話してくれた。
毛利探偵事務所。
閑静な住宅街の広がる、この辺りに比べ、
やや雑多な歓楽街の続く港寄りにある探偵事務所、
小さい街とはいえ、ある程度の需要があるらしいその探偵事務所は、
伯母の親類が経営しているらしい。
平次は今、その家に身を置いているという親切な説明を、
和葉はどこか呆然とした気持ちで聞いていた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 14>
一週間、たった一週間で、
自分と平次の間には、大きな壁が出来てしまった様だ。
父親である伯父が世界のすべてではなく、
母親である伯母の側にも親類はあり、
未成年である平次を放っておくはずがないと、
頭ではわかっている。
けれど、和葉には、
平次が当たり前の様に別の場所で、
新しい生活を始めている事が悲しかった。
何も知らされていない、その事実がまた、
突き放された気持ちに拍車をかける。
それでも、今の和葉には、
毛利探偵事務所を目指すより、他に道はなかった。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 15>
港特有の香りが体にまとわりつく。
大通りの先に広がる海は美しかったが、
少しわき道にそれれば、派手な看板の立ち並ぶ路地も多い。
普段はまったく足を踏み入れる事のない場所に、
和葉は少し不安な面持ちになりながら目的地を探した。
ふと目を向けた路地の奥のゴミ箱の上で、
ノラと呼ぶには少し高級そうな猫が、
そんな自分を鼻で笑いながら眠そうに体を丸めた様に思う。
不思議の国と呼ぶには、何とも雑多な光景だ。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 16>
目的の事務所は雑居ビルの二階にあった。
想像していたよりも小奇麗で、
入りやすい構えにやや緊張を和らげつつ、ノックをすると、
中年の男の声が返され、遠慮がちに中へと身を通すと、
声の主である所長らしき男に、
先客があるので手前の椅子で待っている様にと言われ、
平次の事を尋ねるのには、出鼻をくじかれた形となった。
仕方なく、入り口付近の椅子に腰掛け、
応接セットで客の相手をする所長や室内をながめる。
探偵事務所というからには、
もっと慌しいものを想像していたが、
所長と客の女の他は誰もおらず、
街の不動産屋だと言われれば、鵜呑みにしてしまう様な、
あっさりとした内装の事務所だった。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 17>
所長は三十代半ばといった所だろうか。
きっちりとなでつけた髪に髭をたくわえ、
痩身をダークスーツに包んだ格好は、いかにもな探偵風で、
なかなかに男前なのではと思うのだが、
今はその顔は、何ともやる気がなく、だらりとしている。
「ちょっとおっちゃん!! 人の依頼馬鹿にしてへん!?」
そんな態度に相手の女が大声を上げ、思わず和葉は肩を弾ませた。
夜の仕事をしている女性だろうか、
年は下手をすれば和葉と変わらないくらいかもしれないのに、
化粧も服装も、そして態度も、何とも派手である。
「いえいえ、そんな事はありませんよ・・・。」
嘘がつけないのか、つく程でもないと考えているのか、
慇懃無礼としか言い様のない声は、顔同様に覇気がない。
「もう、預かっとった猫がこのまま見つからんかったら、
あの人がどんだけ怒るか・・・。」
「あの人」というのは想像に難くないが、
「猫」という単語を耳にした途端、
和葉はそんな下世話な考えを巡らせる暇もなく、
一目散に事務所から飛び出していた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 18>
後から思えば、早とちりだった日には目も当てられないが、
女の話を聞いた途端、和葉は先程見かけた、
街にそぐわぬ高級な猫の元へと一目散に走り、
ゴミ箱の上で威嚇し、水たまりに飛び込んだ猫と、
数分の間格闘した後、
泥だらけの姿でその猫を抱いて事務所へと戻っていた。
判定を待つ和葉の耳に、女の感激した声が高らかに届けられ、
所長は一瞬の逡巡の後、
「・・・我が社一、優秀な調査員です。」
と、和葉を紹介した。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 19>
驚いたのは、上機嫌で猫を連れた女が、
去り際に五万もの金をぽんと置いて行った事である。
「あの人」に怒られさえしなければ、
料金確認はどうでも良いらしい。
慌てて止めても、戻る様子のない女に対し、
所長は咳払いを一つした後、
「六・四、いや七・三・・・。」
などと、万札を両手に取って考え込んでいる。
「あの・・・別にええですよ。」
気を使い、そろりとそう告げると、
所長は真っ赤になって照れ笑いを浮かべた。
見た目は渋いのに、何ともお調子者な人物らしい。
「やっぱり買い過ぎだって、服部君!!」
「ええやんか姉ちゃん、育ち盛りなんやし・・・。」
そんな中、ふいに賑やかな声が表に響き、
買い物袋を抱えた平次が、一人の少女を伴って現われた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 20>
「和葉・・・。」
さっきまで少女と笑い合っていた平次が、
驚いた表情で自分の名を呼ぶ。
会いに来たはずなのに、
いざ平次を目の前にすると、和葉の体は硬くなった。
「なーんだ、お前の知り合いかよ。
それならお前の部屋で風呂に入れてやれ。
その、こちらは名誉の負傷をされてな・・・。」
緊張感のない所長の声が響き、
続けて、芝居がかった様子で和葉を平次の前へと誘導する。
そう言われて気づいたが、今の自分は泥だらけだ。
「大変!! ちょっと、お父さん、
何か失礼な事したんじゃないの!?」
所長の言葉に、平次の隣りにいた少女が眉を吊り上げる。
彼女はどうやら所長の娘らしい。
ゆったりとした、腰まで届く優美な黒髪。
いたわる様に和葉に向ける瞳は優しげで、
桃色の頬がつやつやとした、天使の様な美少女だ。
父親同様、その言葉は東京の人間なのだろうか。
スタイルも良いし、何から何まで洗練されている気がする。
和葉はふいに、今の自分の格好が情けなくなった。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 21>
「お風呂、すぐ入れるからね。
タオルと着替え・・・私のだけど、良かったら使って?
服部君は一時間くらいしたら来させるから・・・。」
雑居ビルの中には探偵事務所の他に居住区もあるらしく、
所長の娘は和葉を平次の部屋だという一室に案内した。
普通のマンションの一室の様に、
玄関のあるワンフロアの部屋で、
無機質な部屋の様子をながめる暇もなく、風呂場へと追いやられる。
「洋服、洗って、帰りには渡せると思うから・・・。」
「あ、ええよ!! 紙袋か何か貸してくれたら・・・。」
どこまでも親切な少女に、
少しきついと感じる言葉が出てしまい、自分でも驚いた。
「その・・・ごめんな? ありがとぉ。」
慌てて、そう告げると、
少女は何もなかった様に、にっこりと笑顔を返してくれた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 22>
汚れを落とし、温かな湯につかりながら息をつく。
頭には、先程、少女と戻って来た平次の姿があった。
仲の良さそうな二人。
多分、あの所長が伯母の親類なのだろう。
「親戚の、女の子かあ・・・。」
自分もそうなのにと、情けなく思う。
しかし、今平次が身を寄せているのは、あの少女の家なのだ。
和葉の幼なじみは平次一人だったが、
平次はあの少女と和葉以上の交流を重ね、
伯母の死後、迷う事なくこの家に来たのかもしれない。
涙のあふれそうな顔を、慌てて湯船に静めた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 23>
フローリングの床は、日本家屋で育った和葉には珍しい。
少女の用意してくれた服に身を通し、
慣れない感触を足に感じながら、部屋の中を見渡した。
ソファベッドとテレビとパソコンがある他は、
本と雑誌が積み上げられただけの簡素な部屋。
キッチンもついているが、ほとんど使っている様子がない事から、
先程の、買い出しから帰って来た様な平次達の様子を思い出す。
きっと、食事は別の場所で済ませているのだろう。
あの子が作るのだろうかと考えて、自然と唇が尖った。
持て余す様な感情が自分の中にある。
ソファベッドに座り、しばらくはテレビを観ていたが、
昼下がりの、退屈な番組の数々に
和葉はいつの間にか、まぶたを重くしていた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 24>
「あーんなきっれぇな子が尋ねて来るなんて、
おめえもなかなか隅に置けねえなぁ!!」
「ねえ? 私もびっくりしちゃった。
服部君、可愛い着替え貸しておいたからね!!」
妙な盛り上がりを見せる親類の親子に、
きちんとした説明をするのも馬鹿馬鹿しく思え、
平次は手伝っていた仕事を適当に切り上げると、自分の部屋へと向かった。
母親の遠い親類である毛利という男が、
東京から越して来て、ここに探偵事務所を開いたのは一年前の事である。
探偵という職業に興味があり、
時折事務所をのぞきに来ただけの遠縁の少年に対し、
母親の葬儀でこの男は「来んだろ?」と、
細かい事は何も聞かず、当たり前の様に言い放った。
素直に従ってからは、連日、探偵業に明け暮れている。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 25>
自分の部屋のソファベッドで、
テレビをつけたまま、体を丸めて眠る和葉に対し、
平次は大きくため息をついた。
いつもポニーテールにしてる長い髪をとき、
親類の少女の言う所の「可愛い着替え」である、
白いワンピースに身を包んだ姿は、まるで御伽噺だ。
気が強くて、一を言えば十返す様な性格の癖に、
自分の父親を初めとする家族に大切に育てられたせいか、
人を疑う事を知らず、時として無防備極まりない。
訳のわからない雑居ビルに足を踏み入れ、
今また、初めて入る部屋、それも男の部屋で、
のん気に寝ている様子を見ていたら、
心配を通り越して、怒りが込み上げて来てしまった。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 26>
「いたっ。」
怒りのままに、優しいとは言い難い強さで額をはじくと、
和葉は小さな悲鳴を上げてその身を起こした。
寝つきが良い分、寝起きも悪くはないので、
二、三回瞬きをするとすぐに事態を把握し、
額と同様に頬を赤くし、平次の事を睨んで来る。
そんな和葉の様子に、以前の感覚を思い出し、
平次は頬を緩めかけたが、
すぐに思い直して顔を引き締めると、
和葉がつけたままだったテレビを消し、
「何しに来たんや。」
と、どんな相手にも伝わる程の冷たい声で問い掛けた。
部屋の明かりに迷う程度の速度で、
ゆっくりと太陽が傾き始めている。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 27>
「あ・・・急にごめんな?」
髪を下ろし、いつもとは違う雰囲気の服を着て、
すまなそうに眉を下げて笑う和葉は別人の様にすら見えたが、
平次に向ける、友愛の瞳はいつもと変わらない。
どんなに冷たくしても、突き放しても、
和葉が以前と変わらず、
幼なじみや親類としての情を傾けてくる事が、
平次の切なさや苛立ちを殊更増幅させていた。
しかし、それ以上、
和葉と距離を開ける事の出来ない自分も確かに存在する。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 28>
「その・・・お祖母ちゃんが、平次を連れて来る様にって。」
遠慮がちな和葉の言葉に、
自分で突き放す様な真似をしておきながら、
お前の用事ではないのかと、体が落胆しかけ、静かに息を入れる。
服部桂は血こそ繋がってはいないが、
平次にとっては祖母にあたる。
正真正銘、血の繋がった祖父が、
最後まで自分の両親の結婚に反対し、
自分の存在すら知らなかったのに対し、
祖父の三度目の妻であるこの祖母は、
自分の事も含め、何かと両親の力になってくれていたという。
服部の家に入った際は、孝行してくれと、
家族揃っての未来を見据えていた父に、
何度となく言われた言葉が、昨日の事の様に平次の胸に蘇った。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 29>
いくら力になってくれていたとはいえ、
資産家のご多聞に漏れず、
海千山千の親族達が揃うであろう中、
自分の名前が出る事はないだろうと思っていたが、
「服部家の三番御寮」の名は伊達ではなかったらしい。
まあ、何が飛び出すかは、行ってみなければわからないが。
そんな考えを平次が巡らせていると、
「あたしはお使いで来ただけやから、
お祖母ちゃんに顔見せてあげて・・・?」
和葉が必死な表情でそう言い募って来る。
平次の胸中を考え、自分は無関係だと強調しているのだろう。
その気遣いに小さく息をつき、
平次は「わかった。」と小さく返事を返した。
どのみち、和葉の使用した風呂や寝具を、
今日はこのまま、冷静に使えるとは思えない。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 30>
心底嬉しそうに礼を言う和葉を伴い、部屋を後にする。
和葉に儲けさせて貰った為、ご馳走したいと言ったり、
貸した服が似合うから、そのままプレゼントしたいと言ったり、
事務所で一しきり騒ぐ親類親子を何とか振り切り、街へ出る。
洗濯済みの服を入れた紙袋を持たせて貰い、
借りた服と下ろした髪で道を歩く和葉は、
いつもと勝手が違う事に加え、
自分が隣りに並んでる事もあってか、どこか落ち着きがない。
そんな中、
「よお平ちゃん、新しい彼女か!?」
「やかましい!! そんなんやないわ!!」
届いたおしぼりを店に入れる為、
ドアから顔を出した近所のスナックのマスターが、
二人に冷やかした声を浴びせ、
平次は即座に怒鳴り声を返したが、
「すっかり馴染んどるなあ・・・。」
という、和葉の論点のずれた、
それでいて寂しそうなつぶやきには、
何と答えて良いかわからなかった。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 31>
「あの家・・・知っとるよね。」
坂の下から上の屋敷を指差して、
遠慮がちに問い掛ける和葉に、平次は黙って頷いた。
改方の街に住む者なら知らぬ者はいない、坂の上の屋敷。
父の生家だ。
いつか、家族揃ってあの家で暮らす事を、父は長い事夢見ていた。
母が自分達の暮らしについて、何かを言う事はなかったが、
確かな絆のある相手が、別の家に帰って行く事を、
寂しいと思わなかったはずはない。
ついに、叶わぬ夢だった。
生きて、父と母と、門をくぐる事のなかった家。
両親がこの世を去った時、関係は絶たれたと考えた家に、
今、自分は足を踏み入れようとしている。
幼い頃、坂の下から、あの家には両親を引き裂く何かが棲むと、
畏怖に近い気持ちを抱いて見上げた家は、
成長した自分に何らかのトラウマを残しているかと考えたが、
ただの、古惚けた家や。
静かに見据えた瞳でそう切りつけると、
平次は和葉と共に、たどり着いた家の中に足を踏み入れた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 32>
「まあ・・・和葉お嬢様、どないしましたん?」
屋敷に入ると、温泉旅館の様な広さの玄関口に、
お手伝いらしき年配の女が現われ、
出掛けた時と格好の違う和葉を見て、目を丸くしたが、
「途中で水たまりにはまってしもて・・・。
友達の家で着替えさせて貰たんよ。」
という、和葉の面倒事を省いた説明に納得した様に頷くと、
改めて、横に立つ平次に目を向けた。
「・・・お顔が、若旦那様によう似てますなあ。
奥様も、街でお見かけした事がありますけど、
ほんまに綺麗なお方やったし・・・。」
「・・・・・・。」
祖母に呼ばれていると聞いて来はしたが、
この家の人間に、そう歓迎されているとは思わなかった平次は、
今にも泣き出しそうなお手伝いの言葉に驚いた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 33>
平次の疑問に答える様に、
父が子供の頃から服部家で世話をしてくれている人だと、
お手伝いを紹介した後、和葉が祖母の所在について尋ねると、
「それが・・・東京から箕輪様のご一家がお見になりまして・・・。」
お手伝いが少し表情を暗くして、そう答える。
「・・・お金の事?」
その言葉に、和葉も眉をひそめ、たたきに置かれた履物に目を走らせた。
「ええ・・・東京のお商売、上手く行っとらん様で・・・。」
「お葬式にも顔出さんと、そんな事言いに来たん?」
「せやから奥様もご立腹で・・・。
今回はもう、断絶いう様な騒ぎでしたから、お疲れになったらしゅうて、
今日はもう、お休みになる言うてはりました。」
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 34>
多すぎる金と親族に苦労していそうな家だと思ってはいたが、
想像以上の事らしいと、和葉とお手伝いのやり取りを傍目に聞きながら、
来訪の目的である祖母が休んでいるのなら、
いとまを告げようかと、平次が考えていると、
二人共、そんな平次の考えを見越した様に、気遣わしげな目を向けて来た。
「平次様は、お線香を上げて頂いて、若旦那様のお部屋にお通しするよう、
奥様から言われておりますが・・・。」
「泊まって・・・行くよね・・・?」
差し当たって、断る理由が平次にはなかった。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 35>
気遣いからか、一人通された仏間で、
しばし父の写真と向き合ったが、
平次の心の中では、母の葬儀は両親の葬儀と考えていたので、
今ここで、初めて父と向き合うという気持ちはなかった。
あの二人は同じ場所にいる。
父と並ぶ、祖父とおぼしき男の写真を見据え、そんな事を考えた。
「晩御飯、どうされます?」
時刻は十七時を回ろうとしている。
広い家屋の事で、どういう構造になっているのか、
平次にはまだ把握出来ていなかったが、
仏間から出ると先程のお手伝いが控えており、
小奇麗な中庭に面した奥座敷に通され、
そこで待っていた和葉にそう問い掛けると、
「あ、あたしが作る!!
あ、その・・・皆、箕輪さんのお世話で大変やろ?」
妙に慌てた態度で和葉がそう言い、
不思議に思った平次がその顔を見ると、何故か薄っすらと赤らんでいる。
当然、お手伝いも不思議に思っているだろうと思ったが、
何故か彼女は訳知り顔で小さく笑い、
「それじゃあ、お願いします。」
と言い、和葉と共に台所へと消えて行った。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 36>
「時間なくて、あまりたいした物作れんでごめんな?」
そう言いながらも、約一時間の間に、
きちんと着替えまで済ませた和葉が運んで来た物は、
飯と汁物の他、三品の料理だった。他にも箸休めが数点並んでいる。
家に来た時には良く母親の手伝いをしていたが、
一人でも手際は良いらしい。
内心で関心しつつ、料理を眺めると、
父と母と、そして平次の好物がそれぞれ並べられていた。
「・・・・・・。」
気遣いだと、感じた自分の表情がどう変化したのかはわからなかったが、
余計な事をしたと感じたのか、和葉はもう一度、
「ごめんな。」と謝った。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 37>
そうして、二人で向かい合い、箸を進める。
父の好きだった焼き茄子の味は、母のそれと変わらない。
口の中に広がる生姜醤油の風味を味わいながら、
前に和葉と食卓を囲んだ時は、
坂の下の自分の家で、両親も一緒だった事を思い出した。
和葉を遠ざけなければならない理由がある。
その事に気づいてから、
あの幸福な団欒は、決して長続きするものではないと思ってはいた。
けれど、あんなにも、あんなにもあっさりと、
自分の日常から切り取られてしまう様なものでもなかったはずだ。
しばし目を閉じ、そんな考えを巡らせていると、
目の前の和葉もまた、同じ事を思い出していたのか、
嗚咽を堪える様に肩を震わせている。
散々、突き放す様な事をしながらも、そんな姿には動揺し、
平次は不器用に、
「旨いで。」
と、つぶやいたが、
逆に涙はぽろぽろと、和葉の目から転がり落ちた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 38>
声をかける間もなく、
和葉はもう、何度目になるかわからない、
「ごめんな。」
という、小さな謝罪を残し、座敷から姿を消してしまった。
入れ替わりに先程のお手伝いが片付けに現れ、
気遣いを見せながら平次を寝室となる父の部屋へと案内し、
風呂へ入る様に勧めてくれた。
風呂から上がり、父の部屋を見渡す。
十二畳程の和室には、際立った装飾品等のない代わりに、
無数の書籍が壁を埋め尽くしている。
お手伝いの話では、蔵にもまだ、数え切れない蔵書があるという。
血の繋がりからか、興味のある本も多く、
初めて目にする父の部屋への感傷もあったが、
今はそれよりも、和葉の事が気にかかった。
客人として、気ままに邸内を歩く事ははばかられる時間であり、
また、和葉の部屋の位置も見当がつかなかったが、
用足しだと言い聞かせ、平次は父の部屋を後にした。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 39>
「夕飯は一緒に頂けるかと思ってたんですよ。」
目的もなく歩く廊下の、曲がり角の向こうから若い男の声が聞こえ、
平次はその足を止めた。
「・・・今日は、他に来客があったものですから。」
答える声は和葉のものだったが、敬語という事を差し引いても声が硬い。
相手は先程話していた箕輪という家の人間だろうかと、
考えている間にも、二人の会話は続いている。
和葉の声に色のない事がせめてもの救いだったが、
具合の悪さを苛立ちが上回り、
その場から離れる事が出来ないでいると、
男が色々と話したい事があるからと、和葉を自分の部屋に誘った。
こんな時間に何だと、体中の血が一気に上昇したが、
和葉はそれとは逆に、酷く冷淡な声で断りを入れた。
「まあ、そう言わずに、ねえ和葉さん。」
「ちょっ・・・!!」
拒絶をものともしない、ねっとりとした男の声が耳に入り、
何事か、接触をされたらしい和葉の、小さな悲鳴が耳に入る。
それだけで、平次には充分だった。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 40>
肩をはずされ、うずくまる男を見ても、
自分の中の怒りはおさまりそうになかった。
問答無用とはまさにこの事だ。
「タチの悪い番犬おるって、憶えといた方がええな。」
そう言い残すと、平次は和葉の手を引き、自分の部屋に向かった。
目的はともかく、やってる事はあの男と変わらないと気づくのは、
後になり、冷静さを取り戻してからの事だった。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 41>
「急に手ぇ取られて・・・驚いただけなんよ。」
部屋の中に入り、平次から手を離された和葉は、
ぺたりと畳の上に座りこみ、
おかしな事はされていないかと言う平次の問いに、
力のない笑顔でそう答えた。
「あたしかて、心得あるの知っとるやろ?
あそこまでせんでも・・・。」
子供の頃から剣道を習う自分と同様に、
和葉は合気道を嗜んでいる。
「アホ、手ぇ震えとるやんけ。」
そう言って、膝の上で震える和葉の手を乱暴に取ると、
驚いた和葉の瞳が、手よりも大きく震えた。
その瞳を見た瞬間、
平次は和葉を自分の胸に引き寄せていた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 42>
「平次・・・?」
風呂上りにあの男に呼び止められたのだろう、
浴衣を着ただけの、しっとりと香る肌が自分の腕の中にある。
こんな格好で男と話していたなんてと、
今の自分の行為から、幾分矛盾した事を考え、
平次はその腕に力を込めた。
和葉を遠ざけなければならない理由がある。
気持ちを自覚した時からの、重い枷だった。
そして、両親を亡くした今となっては、
器量も気立ても良いと、
自分の高校で噂になっているのみならず、
地元の名士の娘として知られる、そんな少女は、
別世界の人間だと思うべきだと、
自分に強く言い聞かせて来た。
しかし、ひとたび腕の中に収めれば、
この存在はこんなにも大切で、
かけがえのないものだと気づく。
深く、気づかされてしまう。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 43>
「・・・ごめんな、心配かけて。」
自分の行動を、心配から来るものとだけ考えているのか、
腕の中で和葉がつぶやく。
「あた・・しの事、嫌いやのに・・・。」
次がれた言葉に、
抱きしめた感触と、再認識した自分の心により、
上昇していた平次の体温は一気に冷えた。
一瞬だって、そんな風に思った事はない。
けれど、そう思われても仕方のない態度を取って来た。
その癖、こんな時には感情を制御する事が出来ない、
馬鹿な自分に対し、尚も気遣いを見せる和葉に、
平次は再び、制御出来ない感情に支配された。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 44>
「ちゃう・・・そんなんやない・・・
お前の事、嫌った事なんか一度もない・・・。」
強く、抱きしめて、胸の中の言葉を吐き出す。
そのまま、奥底にしまいこんだ、自分の気持ちを告げてしまいそうだった。
しかし、今の自分には、向き合うべき問題がある。
一人でそうだと決め付けて、和葉を遠ざけて来た理由。
幸いにも、その鍵を握る人物は、自分に会う事を望んでいる。
すべてはそこからだ。
和葉に気持ちを伝えるのも、和葉の気持ちを確かめるのも。
もうこの際、何がどうなってもこいつ連れて、逃げてまうかもしれんけどな・・・。
先程の言葉も告白に近い。
更には物騒な考えを胸中に抱える自分の気持ちが、
腕の中のこの存在には、とうに伝わってしまったのではないかと考え、
平次は静かに和葉を見下ろしたが・・・。
「寝とる・・・。」
安らかな寝顔が目に入るのみだった。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 45>
何っっっやねんこの女は!!
人が今世紀最大の悩み抱えとるっちゅーにグースカと・・・。
そもそも昼間もぎょうさん寝とったやろお前!!
先程までの自分の葛藤と、
幸せそうな幼なじみの寝顔のギャップの激しさに、
ふつふつと怒りがこみ上げて来る。
精神的に疲労する事が多かったのだろうとも思うが、
先程の男にはあれだけ脅えていた癖に、
自分の前では嫌になる程に無防備極まりない。
ただの幼なじみとしか思われていないというより、
男と思われていないのではないだろうか。
だいたいこいつは昔から・・・。
胸中で苦々しく毒づきつつも、
このままでは風邪をひくと考え、
和葉の部屋はわからないままなので、
平次は苦心惨憺の末、用意された自分の布団に、その体を横たわらせた。
正直、何度が意識が飛びそうになったが、
気合を入れ、離れた壁にもたれかかる。
今夜は寝るなという事だろう。
幸いにも、読む本は山程あった。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 46>
年寄りは朝が早い。
結局、一睡も出来ぬまま、
朝の五時に平次が用足しに廊下に出た時、
昨日のお手伝いが、
「もう起きられました?
朝食前ですが、奥様がお会いになりたいそうです。」と告げに来た。
和葉の眠る部屋に入られずに良かったと、
嘆息しながらその後に続く。
平次の泊まった父の部屋と中庭を挟んだ迎いの建物に、
祖母の、そう呼ぶべきなのだろう、服部桂の部屋はあった。
お手伝いが声をかけ、静かに襖を開いた途端、
伽羅の香が平次を軽く圧倒した。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 47>
「あの子に似ているね。」
お手伝いを引かせ、父の部屋よりも幾分狭い、
八畳の和室で向かい合った祖母は、
想像していたよりも若かった。
父には60前後と聞いていたが、
髪はようやく白いものが見え始めたという程度で、
控えめな色の紬を着てはいても、どこか艶やかな印象がある。
花柳界の出とは聞いていたが、
映画女優だったと言っても通用するであろう、
意思の強そうな美しい目鼻立ちと、姿勢の良いその姿は、
その手腕で服部家を更に盛り立てたという話を裏づけするかの様だった。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 48>
「学校の成績は優秀、剣道の腕も一流、
最近は探偵なんて分野でも活躍しているそうだね?」
「・・・調べたんか?」
端座して向かい合った祖母に対し、
どう言葉を切り出して良いかわからなかった平次だったが、
辰巳の出を証明するかの様な、江戸前の切り口上で、
値踏みする様にそう言われた瞬間、挑む様な目でそう切り返していた。
「大事な跡取りの事だからね。」
祖母の言葉には淀みがなかった。
打診等を一切省いた、決定事項としての言葉を耳にし、
さすがの平次も瞠目した。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 49>
「俺は・・・こんな家、継ぐ気はないで。」
こんな家、と言ってしまってから、
父の生家であると思いはしたが、
この家とは確実に、割り切れない何かがある。
しかし、祖母は平次の言葉に眉一つ動かす事なく、
「こんな家だからこそ、乗っ取ってやったら良いじゃないか。」
などと、さらりと言ってのけた。
「な・・・。」
「それに、今なら、副賞もついて来るよ。」
「ふ、副賞!?」
お茶目、とでも言うのだろうか、
話の内容に見合わない、セールスの様な事を言い、祖母が笑う。
その笑顔に、一瞬、平次は何かを感じたが、
それを打ち消すかの様に、仰天する様な言葉が祖母の口から発せられた。
「あんたに和葉をやる。」
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 50>
「な・・・何言うとんねん。」
副賞て、犬や猫やあるまいしと、
常識的な事を言う以前に、平次には狼狽する理由がある。
「あんな良い子が近くにいて、惚れないはずかないだろ?」
「・・・・・・。」
確実に、見抜かれている。
狼狽に、とどめを刺された様に、
平次は苦虫を噛み潰した様な顔を浮かべた。
しかし。
今の自分には、向き合うべき問題があった。
そして、その鍵は眼前の人物が握っている。
だが、今の祖母の物言いから、あの問題はどう解釈すれば良いのだろう。
そんな逡巡を抱える平次の心を見透かす様に、
祖母の瞳が聡明に動いた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 51>
「和葉はね、あたしの子だよ。」
「な、何やて!!」
祖母の物言いには常に淀みがない。
天気の事でも話すかの様に、さらりと告げられた言葉に、
平次は思わず大声を上げた。
それ以前に、何故、自分の疑問がわかったのだろう。
「何でわかったって顔してるね?」
祖母の切り返しに、平次は言葉を失った。魔女としか思えない。
「・・・あんた、ある時期から和葉に冷たくする様になっただろう。
あの子はいつもあんたの家に行った後は上機嫌なのに、
いつの頃からかそうじゃなくなった。
それがあんたの態度によるもので、
あんたが何を考えてるかはすぐにわかったよ。」
「・・・・・・。」
日が、ゆっくりと昇り始めている。
光が強くなって行く毎に、聡明さの増す祖母の顔を見つめながら、
平次は膝に置いた両手を、強く握りしめた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 52>
「あんたは和葉を好きになった。本気でね。
でも、それと同時に、あの子の出生にまつわる噂を考える様になったんだ。」
「・・・・・・。」
赤ん坊の時に服部様に預けられた遠縁のお嬢様。
表向き、和葉の出自はそうされているが、
親類連中の口さがない噂は、平次の耳にも入って来ている。
女出入りの激しかった祖父が、どこかの女に産ませた子供。
「・・・惚れた女が、父親の妹かもしれないという事実にあんたは悩んだ。
どうあっても結ばれない運命だってね。」
「・・・・・・。」
確信めいた祖母の言葉に、
和葉に対する気持ちを自覚した頃の、自分の葛藤がまざまざと蘇る。
「確かめようにも事が事だ、場合によっちゃ和葉を傷つける、
ついでに言うなら別にお互いの気持ちを確かめ合った訳じゃない、
だからあんたは傷が浅い内にと考え、わざと和葉を遠ざけた。違うかい?」
明確な祖母の言葉に、平次はただ驚き、静かに頷いた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 53>
長い、祖母の思い出話が始まった。
祖母は昔、この街で産まれたが、
事情により、家族揃って東京に行く事になり、
両親と死別した後は、辰巳の芸者として二十年以上の時を過ごしたという。
特に口にする事はなかったが、様々な苦労もあったろうと、
平次は祖母の、世をしっかりと見据えた瞳の色を見ながら思った。
「そんな時、和葉の父親と出会ってね、
四十過ぎの恥かきっ子だったけど、あの子を授かった時は嬉しかった。」
晴れ晴れとした笑顔が広がる。
しかし、身重の妻を残し、
その相手は流行り病であっけなくこの世を去ってしまったという。
元芸者が身重となって、何の身寄りもなく、
東京で途方に暮れていた時、出会ったのが同郷の祖父だった。
「元は幼なじみでね、ままごとみたいな口約束もしてたけど、
あたしが東京に行く事になって、そのまま・・・。」
しかし、再会を果たした祖父は、祖母の事情をすべて受け入れ、
東京で出産の面倒を見、一年後、自分の妻として家に迎え入れたという。
「和葉の事も、連れ子として迎え入れて、あたしと二人、色々言われるよりは、
遠縁のお嬢様にしといたらええってね。
だけど、もしかしたら、亡くなった遠山に、義理立てをしたのかもしれないね。」
しんみりと語る祖母の口調に、
平次は、両親の件から、頑固で冷たいとしか思っていなかった祖父の、
意外な一面を見た気がした。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 54>
「あんたの両親の事は、実はあたしにも原因があってね。」
またも、平次の心を見透かす様に、祖母が言葉を次ぐ。
「昔、あたしの家がこの街から出る事になったのは、
あんたのお母さんの実家への借金が原因でね。」
「・・・・・・。」
思いがけない展開に、平次はもう、何を言って良いかわからなかった。
「金なんざ、借りた方が悪い。しかも家は夜逃げをしたも同然だ。
だからあたしは何の関係もないあんたのお母さんを恨んだりはしてないが、
あの人には、割り切れない気持ちがあったんだろうね。」
その後結婚する事になった、平次の父の母との間にも、
無論、二番目の妻にも、愛がない訳ではなかった。
他にも色々と女遊びをして来た様だが、最初の約束を交わした女への思慕は特別で、
別れる原因となった家の娘を、
すんなりと息子の嫁に迎え入れる事は出来なかったのだろう。
そんな父の気持ちを察する気持ちもあったからこそ、
平次の父も、母と平次を連れ、この家や街から去る事は出来なかったのだという。
「だから、あたしは何とか、
あんたとあんたのお母さんをこの家に迎え入れるつもりだったけど、
生きてる内にそうしてやる事が出来なかった。
平次、これだけは頭を下げるよ。」
そうして頭を下げる、祖母の小さい体に、平次は無性に泣きたくなった。
実際はただ、口を引き結ぶのみだったが。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 55>
「・・・長い間、家のしがらみに苦悩させられたね。
和葉も同じ様な悩みを抱えてるかもしれないが、
あの子に話すのは、成人した頃でも良いと思ってる。
だからあたしは、あんたが来るのを待っていたよ。」
どんどん離れて行きそうだから、結局呼び寄せる事になったがねと、
祖母は長い話を笑顔で結んだ。
その表情に、平次は先程感じ取ったものの正体を理解した。
和葉と良く似た、真っ直ぐな笑顔。
「これからも色々苦労はあるだろう、
でもあたしは見込みがないと思った奴にこんな話はしない。
あんたなら、この家を継ぐ才覚がある、
やりたきゃ一緒に探偵をしたって良い、
あたしだってまだまだくたばる気はないからね。
そうして、あの子を手に入れる気はあるかい?」
今度は副賞などという言い方ではなく、
和葉の事を本題として祖母が語る。
「・・・男として、まったく意識されとらんけどな。」
すべての答えである様に、本音を吐くと、祖母が快活に笑った。
「遠山も、鈍かったからねえ。」
その言葉に、平次も笑い、膝を打って立ち上がった。
「せいぜい頑張るとするわ。・・・お祖母はん。」
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 56>
早足で廊下を歩きながら平次は思案した。
探偵事務所には事情を話し、
仕事は手伝うが、部屋は出る事にすると話さなければならない。
しかし、余談であるが、
同時刻、平次の親類の少女が、
「探偵としての勘も鋭いし、本当に頼りになるのよ、服部君て!!」
などと、東京にいた頃の幼なじみに電話で話した事により、
彼女を想ってやまないその少年が、
今までの我慢も限界と、平次を追い出し、彼の部屋におさまろうと、
東京の地を後にするまであとわずかである。
学ぶべき事もたくさんあるし、
剣道も、探偵業もおろそかには出来ない。
しかし、さし当たっては。
平次は勢い良く、自分が泊まっていた父の部屋の襖を開いた。
つづく
<短期集中連載・坂の上、ふたり 57>
「あ、平次・・・。」
襖の開いた音により、和葉が目を覚ます。
まだ自分がどこにいるか、把握してはいないものの、
ゆうべは何かとても、幸せな言葉を聞きながら眠りに落ちた気がしていた。
そんな和葉を見下ろしながら、平次はごくりと息を飲んだ。
お前の事が好きで好きでたまらん。
せやけどお前は俺の事なんて何とも思っとらんと思ったし、
色々事情もあって、今まで冷たくしとった。
その事は許して貰えるまで謝る、何でもする。
そんで、突然やけど俺はこの家継ぐ事に決めた。
その事もあるけど、他にも色々、
またあんなカス男がお前に近寄ると思うと、
気が気やないから、この家で一緒に暮らす。
けどまた、昨日みたいに近くで無防備に寝られたら我慢出来ん。
何度も言うが、お前の事が好きで好きでたまらん。
せやから今すぐ意識しろ。
俺の事、嫌いかもしれんけど、何とも思っとらんかもしれんけど、
今すぐ意識しろ。
再三言うが、お前の事が好きで好きでたまらん。
そう、一息に告げる為に。
終わり
<当時の後書き>
長引いた割に最後が尻すぼみだなあ(自分で批評。)。
でも、服部の告白なんて真剣に長々と書けませんよ。
そんな訳であんな感じにしましたが、
言えないんだろうな、やっぱ(えええー。)。
さてさて、長らくお付き合いありがとうございました!!
かーなーり突っ走ったパラレルだったと思います。
海のある街を見下ろす、坂の上のお屋敷の、ちょっと古風な話を書きたかったのですが、
何とも暗い雰囲気の話になってしまい、服部も和葉も大人しい子ちゃんに・・・。
近親相姦ネタを出した時は、つくづく昼メロだなあと思いました。
色々ややこしいですが、色々細かい所に突っ込まないでいてくれる人が好き。
でも服部は、ふっきれた後は、例えそうでも和葉を連れて逃げようと考えたり、
コミカルな葛藤があったりと、ちょっと普段通りにしたつもり。
逆に和葉は翻弄されまくり悩みまくりで、
恋心もはっきりとは自覚してない、普段よりも子供な設定だったりします。
祖母同様、死んでしまった両親も、完全にオリキャラだと思って頂けると良いのですが、
中途半端に毛利親子とか出してしまった・・・。
まあ、ハマりたての頃に考えたパラレルって事で、自分では色々と気に入ってる作品です。
婚約者的な事になるのかどうなのかな、
二人の続きも書いてみたい気もするけど、ここから先はまったく考えてません。
<現在の後書き>
話としては気に入ってるが、
やはり突っ走りすぎてイタい。